親鸞聖人研究・龍谷大学論集・第365・366合併号 別刷・昭和35年 

1親鸞聖人における現生正定聚の意義 信楽峻麿

一 序説
二 宗祖における浄土の理解
三 浄土の永遠性と現在性
四 現実における救済の成立
五 正定と滅度との分立

一 序説

 親鸞聖人は『証文類』において、

「然るに煩悩成就の凡夫生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するが故に必ず滅度に至る」

と説いている。

弘願真実の信心を獲得すれば、即時に現生には正定聚に安住し、そしてその故に、当来には必ず滅度に至って無上涅槃の佛果を得証すると示すのである。

即ち宗祖は得益論において、正定聚と滅度との現当二世に亘る利益のあることを開顕提唱したのである。

 この正定聚については佛教々学上広く大小両乗に亘って説かれるところであり、その意味も決して一様ではないが、今宗祖において語られる正定聚とは『一念多念文意』に「かならずほとけになるべきみとなれるとなり」(真聖全2・606)「わうじやうすべきみとさだまるなり」(真聖全2・605)と左訓する如く、まさしく往生成佛することに決定せしめられた聚類と言うことである。

宗祖はまたこの正定聚を不退転とも呼んでいる。

不退転とは佛道向上の過程において再び下位に退転しないことであり『一念多念文意』には「ほとけになるまでといふ」(真聖全2・606)と左訓している。

宗祖においては正定聚と言い不退転と言うも全くシノニムとして解せられ、正定聚とは上佛果に望めて呼び、不退転とは下迷界に対して呼んだ名であって、何れもこの現生において、必ず往生成佛の証果を得ることに確定し、再び迷界に退転することのない身分に定まることを意味するものである(1)。

 しかしながら浄土教の伝統においては、この正定聚不退転を必ずしも現生の益とは解せず、むしろ多くは滅度と共に当来彼土において得る益と見るのであって、法然も「不退の浄土」(西方指南抄 下末 真聖全4・32)「安楽不退の国」(漢語灯録 巻8 真聖全4・472)などと語るが如く、殆んどそれを当益としているのである。

しかるに宗祖は如来の願海の深義を探尋し、その玄奥に参徹することによって(2)、それがまさしく聞信の一念のところに付与されるべき、現生における入信の巨益なることを領解したのであった。

このことは伝統を継承しつつしかもそれを越えていった宗祖独自の己証に外ならない。

しかも宗祖におけるこの現生正定聚論の提唱は、更に等正覚、便同弥勒、諸佛等同などの思想にまで展開されて、殊に宗祖晩年の消息においては極めて積極的に高調されるところであり、真宗教義の大きな特色をもなしているのである。

 だが宗祖がかかる現生正定聚論を己証し提唱したと言うことは、もとより願海にその文意を見出した故ではあるとしても、一体如何にしてかかる論理が成立しうるのであろうか。

それについては古来、光明摂取の面より論ずる義(3)と、名号廻向の面より論ずる義(4)とが立てられているが、それは何れも如来摂化の側から考察されたものであった。

しかし今はそれに対して主体的な信体験の立場から、殊に宗祖における浄土に対する領解を中心として、この現生正定聚論成立の論理的根拠を窺って見たいと思う。


二 宗祖における浄土の理解

 浄土とは本来最も現実的な諸法実相の世界であって、決してこの現実を遠く離れて語られるべきものではなかったようである(5)。

しかし浄土教の教理展開の過程を顧みる時、それは次第に現実を越えこれと対立する他界として把握され、現世を捨てて死後に至るべき来世として理解されてきているのである。

かかる傾向は日本浄土教においても顕著であって、源信の『往生要集』に説かれる浄土とは、いわゆる厭離穢土欣求浄土の立場から、現実否定の意識に基づいて、此土に鋭く対立する彼土、死後に生れるべき他界として把握されており、しかもそれは成佛の為の方便的環境として願生されたものであった。

そのことはまた法然にも通ずるようである。

法然は源信を受けながら偏えに善導を継承することによって、阿弥陀佛の本願を基調とする立場から浄土を把握しているのである。

その意味においては法然における浄土とは、この現実に深い繋がりを持つものであったと言わねばならない。

しかしまた法然にあっては、尚浄土は「不退の国」として、成仏の過程における方便的環境としてしか理解されていなかったところから、浄土が現実に対して持つところの意義よりも、その浄土にまで如何にして至るかと」言う、往生の方途についてより多大の関心が集中されていた為に、それは依然として現実を遥かに越えそれに対立する彼岸来世でしかなかったのである。

このように源信、法然における浄土とは、現実に鋭く対立するものとして、現実から浄土へ、今世から来世への、全く一方的な方向において把握され理解されていたものであった。

 しかしそれに比して宗祖における浄土の理解には大きな展開を見ることができる。

宗祖の浄土思想は偏えに法然のそれを継承し、如来の本願と言う一点を通して把握されたものであったが、更らにそれを徹底せしめることにより、浄土とはどこまでも私自身の為に建立されたものであって、決してこの現実を遠く離れてはありえないものであるとして、全く主体的に領解しているのである。

だから宗祖における浄土とは、そこへ如何にして至るかと言う問題と共に、それが如何に現実に関わっているかと言うことが問題であったのである。

 即ち宗祖は『真佛土文類』において、

「然れば則ち大悲の誓願に酬報するが故に真報佛土と曰ふなり。既にして願有ます。即ち光明寿命の願是れなり」(真聖全2・123)

と示し、佛身と浄土とが共に大悲の誓願に酬報して成就したものであると述べている。

ここで大悲の誓願と言うのは、直接的には第十二、十三の光明無量、寿命無量の願を指しながらも、その両願が全く第十八願中のものであると言うことを意味している。

またその終りには、

「選択本願の正因に由って真佛土を成就せり」(真聖全2・141)

とも述べているが、これは明らかに佛身と浄土とが第十八願を因として成就せることを示すものである。

これらのことは佛身と浄土とが共に第十二、十三の願の成就として如来自身の正覚の果であると同時に、それはまた一切衆生の救済を誓った選択本願に基づくところの、衆生の為のものでもあると言うことを意味するものに外ならない。

宗祖はまた『真佛土文類』において、

「謹んで真佛土を按ずれば佛は則ち是れ不可思議光如来なり、土はまた是れ無量光明土なり」(真聖全2・120)

と述べ、佛身及び浄土を共に光明をもって明かしている。

佛を「不可思議光如来」と言うのは『如来会』の文により、浄土を「無量光明土」と示すのは『平等覚経』に基づくものであるが、このように佛身と浄土とを特に光明をもって呼ぶ理由については種々考察指摘されるところである。

元来佛身及び浄土は光明無量、寿命無量にして、光寿何れをもって示すことも可能であるが、『末灯鈔』に言う如く(6)光明は徳用を表わすものであって、『大経』では光明成就の文において阿弥陀佛の徳相を説き、『論註』では無碍光について破闇満願の徳義を述べている。

今また宗祖が光明をもって佛身と浄土の名とする所以は、何よりもそれらがこの現実に対して、大悲摂化の力用を持っていることを顕わさんとするものであると窺われる。

即ち宗祖においては佛身と浄土との荘厳功徳の相は異っていても、共に法性真如の一切衆生を摂化せんとして自らを方便開示したものに外ならず、いわゆる依正不二にして、阿弥陀佛が常に如来としてこの現実に向って働きかけつつある以上、浄土もまた不断にこの現実に向っていると領解していたものであろう。

そのことはまた『本典』の編次について古来順逆二観が行なわれ、従生向佛の趣入門の立場から、『真佛土文類』は前四巻所明の教、行、信、証の終帰するところ、衆生の往生趣入すべき究竟の彼岸として、前巻『証文類』において説く衆生の証果の分斉を示すものであり、衆生所得の果が如来の正覚と同一味なる無上大涅槃なることを明かすものであると見られると共に、また従佛向生の摂化門の立場より、この『真佛土文類』は前四巻において説く、往還二廻向、教、行、信、証の法門の縁起する根拠、衆生摂化の淵源を顕わすものと見られていることによっても明らかなところである。

 かくして宗祖における浄土とは、源信、法然のそれが現実から浄土へと言う一方的な方向において、この現実を越えそれに鋭く対立する彼岸来世として理解されていたのに対して、それは衆生が願生帰入してゆくべき究竟の彼岸であると同時に、また大悲摂化の本源として、決してこの現実と隔絶しているものではなく、不断に衆生を救済すべくこの現実に向うものとして、現実から浄土へ、浄土から現実へと言う、二重の方向において把握されていたものであったと言うことができるのである。


三 浄土の永遠性と現在性

 阿弥陀佛の浄土とはその本願に酬報して建立されたものであるが、『大経』には「成佛已来凡歴十劫」と説いて、それが十劫の過去において始成されたものであると示している。

宗祖も『浄土和讃』に、

「弥陀成佛のこのかたはいまに十劫をへたまへり」(真聖全2・486)

と讃じている。

しかし宗祖は更に、

「弥陀成佛のこのかたはいまに十劫とときたれど、塵点久遠劫よりもひさしき佛とみへたまふ」(真聖全2・492)

とも示して、この十劫とは単に時間的な限定をもつものではなくて、そのまま久遠に即するものであることを明かしている(7)。

ここで久遠と言うのは無始を意味している。

故に浄土とは時間的には無限の過去以来のものであると言わなければならない。

しかもまたこの浄土とは『大経』には「去此十万億刹」と述べ、『小経』には「従是西方過十万億佛土」と説いて、それが現実を遠く隔ったものであると明かし、更には『浄土論』に「勝過三界道」と示して、それが全く三界を超過した彼岸であるとも述べている。

このように浄土が現実と遠く隔たり三界を勝過しているとは、それがこの迷妄を越えた絶対真実なるものとして、空間的には無限の彼方なる存在であり、時間的には無限の未来なるものであると言うことを意味するものに外ならない。

かくして浄土とは無限の過去なるものであると同時に、無限の未来なるものでもあると言うことができるであろう。

即ち浄土とは時間的には無限の過去と未来とに亘って、あらゆる時間を越えた永遠なるものなのである。

 しかしこのように浄土が永遠なるものとして無限の過去以来のものであると言っても、そのことは単に客観的に存在する直線的連続的な時間の延長における、無限の過去の成就を意味するものではない。

このような直線的時間上においてそれを客観的に思惟して、阿弥陀佛は既に遠い過去に成佛し、浄土は遥かなる昔に建立されており、衆生はその本願に予定されているコースに従って、如来に救済され浄土に往生せしめられるのであるとのみ考えるところに、法蔵菩薩の発願修行が単なる神話として誤解される理由がある。

既に本願文に「若不生者不取正覚」と誓われている以上、阿弥陀佛が成佛し浄土を建立すると言うことと、この現実の衆生が救済されると言うこととは決して離れうべきものではなく、浄土とは久遠の過去に建立されたものでありつつも、また同時に衆生を往生せしめると言うことにおいて成就しうるものなのでもある。

即ちどこまでも現実の衆生が往生せしめられると言うことと、阿弥陀佛が成佛し浄土が建立されると言うこととは不離であって、いわゆる往生正覚は一体なのである。

 この往生正覚一体の問題について空華学派の主張する数々成佛説、即ち阿弥陀佛は別縁受化の衆生の為に、久遠の真証より数々因に降り数々果を成ずるものであると言う理解(8)、更らにはこの主張を展開した鮮妙の「一人一人の願行を成ずるものにして一人一人に十劫の結縁済度に与かる。

一人の衆生に一五劫、一兆載、一正覚成就、一光号摂化ありて以て往生の大事を成就することを得、然るに衆生の機三世無窮なれば発願成道また無窮なり(9)」と言う説は、十劫の過去における阿弥陀佛の正覚が、衆生の一人一人が救済されること――私自身の往生――を離れたものでないと言うこと、即ちそれが異時的な因果関係にありながら、またあらゆる時間を越えて同時的な因果関係にもあることを語ろうとするものであって、阿弥陀佛の正覚と衆生の往生との時間的関係を見事に解明した卓説であると言うべきであろう。

しかもその衆生の往生とは、宗祖の立場においてはただに臨終捨命の後の得生を指すのみではなくて、まさしくは往生が決定する信の一念の現在において見なければならない。

だから往生正覚が一体であるとは、如来の正覚成就と衆生の信の一念の現在とが不離であると言うことであって、阿弥陀佛とは久遠の過去において成佛したものでありながら、しかもまたそれは現に私が救済されると言う信の一念に即して成佛するものでもあると言わねばならない。

そしてこのことはまた浄土の建立と信の一念との関係をも意味するものであって、浄土とは久遠の過去に成就したものでありながら、しかもまた私が救済されると言う信の一念の現在に即して建立されるものなのでもある。

 しかるにかかる浄土が客観的に直線的連続的な時間の延長上における、異時的な因果関係としてのみ考えられる時に、その十劫始成の経説が単なる神話として理解されると同時に、「従是西方過十万億佛土」と言う経文もまた客観的に思惟されて、それが空間的には現実と遥かに隔絶した他界であり、時間的にはどこまでも未来なるもの、死後に至るべき来世としてのみ把握され願生されることとなるのである。

しかもこのような浄土の理解のところでは徒らに死後のみが問題となって、現実は厭(イト)われるべきもの捨つべきものとなり、現実における救済は何等求むべくもないこととなる。

平安末期の頃、現実に対する危機意識を通して民衆に受容され欣求されたところの浄土とは、諸種の『往生伝』が物語る如く、このような単なる来世他界としての浄土に外ならなかったのである。

また源信が『往生要集』において明かした浄土が、次生乃至は二、三生を経た後に到達すべき彼岸であり(10)、法然が、「無益のこの世をいのらんとて大事の後世をわするる事はさらに本意にあらず」(拾遺語灯録 巻下 真聖全4・742)とて、この現実をば無益なものとして、厭い捨て如来の救済の全てを後世に求めたことなどは、尚かかる理解に停滞していたことを意味するものではなかろうか。

しかし宗祖における浄土とは、それが無限の過去に建立されたものでありつつも、また同時に往生正覚一体として、現実の私が救済されると言う信の一念に即して成就するものであるが如く、空間的には現実を勝過した彼岸であり、時間的には我々にとって無限の未来のものでありつつも、それはまた不断に現実に向うものとして、信の一念の現在に即するものであったのである。

 かくして宗祖における浄土とは、この迷妄の現実を遥かに越えた彼岸でありつつも、また同時に大悲摂化の根源として常にこの現実に向っているものであって、浄土とは空間的には辺即無辺の妙境界であると説かれる如く、時間的には無限の過去と無限の未来とに亘って一切の時間を越えた永遠なるものでありつつも、また同時に信の一念の現在に即するものであって、永遠でありつつ現在に即し、現在に即しつつ永遠なるものであると言うことができるのである。


四 現実における救済の成立

 このように宗祖においては、信の一念の現在は生滅流転の中の一刹那でありながらも、また同時に無限の過去と無限の未来とを包んで永遠に即するところの絶対現在であったのである。

だからこの信の一念においてこそ始めて浄土は衆生に対して顕わとなり、衆生はここにおいてこそ正しく浄土を領納し把握することが可能となるのである。

そしてその限りにおいては、衆生はこの信の一念の現在に如来の救済を受けて浄土の証を得ることとなると言うことができるであろう。

確かに宗祖はこの信の一念のところに、生死流転の迷界の繋縛から超断せしめられることを示し、現生に即得往生を語って、現実における救済の成立を明かしているのである。

即ち宗祖は『行文類』の六字釈において善導の言う「心得往生」の文を釈して、

「心得往生と言ふは不退の位に至ることを獲ることを彰はすなり。経に即得と言へり釈には必定と言へり。願力を聞くに由って報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。必の言は審なり、然なり、分極なり。金剛心成就の貌なり」(真聖全2・22)

と述べているが、殊にこの文中において必の字を註するについて、「審なり」とは「つまびらかなり」「あきらかなり」と訓ずる如く、信の一念において既に浄土の往因が究竟決定して審諦詳悉なることを言い(11)、「然なり」とは「しからしむとなり」と訓じられて、往生成佛の業事は全く願力自然によって成弁せしめられることを顕わし(12)、「分極なり」とは「わかちきわむる」と訓ずる如く、領分のつめのところ境目の極わまることを示し、この信の一念が明らかに迷界と悟界とを分つ境目なることを意味するものである(13)。

このことによって知られる如く、宗祖においては信の一念の現在において、願力によるが故に必ず往生成佛を得るものとして、迷界流転の繋縛を断截し浄土の業因を成弁せしめられることとなるのであって、迷と悟との分極わかれめは臨終捨命の時においてではなく、まさしくこの信の一念の現在にあることを示しているのである。

そしてまた宗祖は第十八願成就文を釈するについて、一般の伝統的解釈によれば浄土に往生した後に得るところの益と見られていた「即得往生住不退転」の文を、

『一念多念文意』には

「即得往生といふは即はすなわちといふ、ときをへず日おもへだてぬなり。また即はつくといふ、そのくらゐにさだまりつくといふことばなり。得はうべきことをえたりといふ、真実信心をうればすなわち無碍光佛の御こころのうちに摂取してすてたまはざるなり。摂はおさめたまふ取はむかへとるとまふすなり。おさめとりたまふとき、すなわちとき日おもへだてず正定聚のくらゐにつきざだまるを往生をうとはのたまへるなり」(真聖全2・605)

と示し、

また『唯信鈔文意』には、

「即得往生は信心をうればすなはち往生すといふ。すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ。不退転に住すといふはすなはち正定聚のくらいにさだまるなり。成等正覚ともいへり。これを即得往生といふなり。即はすなはちといふ、すなはちといふはときをへずひをへだてぬをいふなり」(真聖全2・625)

とも明かし、それが全く聞信の一念において与えられるところの現生の益であるとして、ここに現実における如来の救済成立の証権を見出しているのである。

元来往生とは法然が『往生要集大綱』に「往生と言うは捨此往彼蓮華化生なり」(真聖全4・393)と述べる如く、捨此往彼(往)蓮華化生(生)として捨命以後のこととするのが、彼土得証を標榜する浄土門の基本的解釈である。

しかるに宗祖はこの伝統を継承しながらも、他面それを越えて現生における即得往生をも明かすのであって、『口伝鈔』に伝えるところの不体失往生の主張の如く(14)、往生の概念はその意義を展開してただに肉体の生理的死滅をまって得られるのみではなく、既にこの現生における信の一念の得益としても語っているのである。

 しかしここで宗祖が信の一念は迷と悟との分極であり、ここにおいて衆生は迷界流転の繋縛を超断せしめられ、即時に往生を得るとして、現実における救済の成立を語ると言っても、既に前引の釈文にも明らかな如く、それは決して即身成佛、娑婆即寂光土として、此土入聖的に現生において直ちに浄土の証を獲得すると言う如き、具体的なる覚証の事実について語ることではなく、あるいはまた浄土の証をこの現生において密かに獲得すると言うことを意味するものでもなかったのである。

宗祖においては『歎異抄』に、

「煩悩具足の身をもてすでにさとりをひらくといふこと、この条もてのほかのことにさふらう。(中略)浄土真宗には今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひさふらうぞとこそ、故聖人のおほせにはさふらひしか」(真聖全2・786〜7)

と述べる如く、まさしき証としての往生成佛の究竟はどこまでも臨終捨命の後の来世をまたねばならなかったのであり、この信の一念のところに迷界流転の繋縛を断截せしめられると明かし、現生において即得往生を語ると言うことは、全く往生浄土の真因の決定、浄土の証を得る分位におさめられることを顕わすものであって、それは決して現実における証果の顕現、乃至はその一部の獲得を意味するものではなかったのである。

 しかれば宗祖は絶対現在としてのこの信の一念において、既に迷と悟とが分極され、往生の業因成弁し浄土の証を得る分位におさめられるとして、現実における救済の成立を認めながらも、何故に尚浄土の護果の獲得を毫末も許さないでその全てを来世におくったのであろうか。


五 正定と滅度との分立

 本願を聞信する一念において、衆生はまさしく生死流転の迷界の繋縛を超断し浄土の証を得る分位におさめられて現生に救済を受けるのであるが、宗祖にあってはこの信の一念のところに如来の救済を受け浄土の証を得る分位におさめられながらも、また同時により決定的に自己が宿す煩悩虚妄の深さを知り、自己自身は全く無明の闇に閉ざされて、如来に背むき浄土の証に遠く距った存在であると言うことを自覚せしめられたのであった。

即ち自己は全く無明煩悩の存在であって浄土の証に対してはあくまでも断絶していると言う自覚と、自らは現に如来に救済されて浄土の証に連っていると言う自覚とが、一つとなって成立しているのがこの信の一念の内容であったのである。

 人間は本来無明我愛の存在として煩悩に覆われているが故に、常に自我的に全てのものを自己に対する客観として、主客対立隔離の場において思惟し且つそれを把握しようと試みる。

そして自己の煩悩虚妄性についても、とかくそれを人間一般の問題として概念的に思惟するとか、或いは単に自己が別の自己を反省し思惟すると言う仕方において意識している。

しかしこう言う見るものと見られるものとの主客隔離の場において、見られるものとしての客体化された自己とは、主観に繋縛されそれによって妄分別されたものであって、決して真の自己自身の姿ではありえない。

しかもまたそう言う妄分別のところでは、主観もまた客観によって繋縛されていることとなる。

主観が客観に繋縛され、客観が主観に繋縛されて、主客対立的に妄分別を生み出しているのが人間の日常である。

このように自我的に主客対立隔離の場において妄分別を続ける限り、人間は自己自身の真の姿を自覚しえないのみならず、また正しく如来を領納し浄土を把握することは不可能である。

しかし自己が自己を反省すると言う立場を、より一層根源的に深めることにより、更にはその主客対立の場を突破泯亡することによって、ひとたび現実の自己の脚下を開いて直ちに自己自身の存在そのものの根底にまで達すると言う如く、自己の煩悩虚妄性についての最も根源的な主体的自覚に達するならば、ここにこそ始めて自己自身そのものの真の姿が顕わとなり、出離の縁なき煩悩虚妄の存在としての自己に目覚めることとなる。

しかもまたこのように自己自身を主体的に自覚し真の自己が顕わとなる時、同時に今まで主客対立的に妄分別されていた如来浄土も、その繋縛を離れたそれ自身として、真の姿を顕わならしめ正しく領解されることとなるのである。

それはあたかも光は闇を知るもののみにこそ、始めてその意味を顕わならしめるが如きものである。

しかしこのように自己自身が真の根源的な主体的自覚に達すると言うこと、即ち自己が出離の縁あることなき無明煩悩の存在であると言う自覚を持つことは、既に自己が本来無明煩悩に閉ざされて妄分別する存在である以上、自己自身によっては全く不可能なことである。

人間はただ如来の本願を聞受することによってのみ、始めてこのように自己自身の姿を主体的に自覚しうることとなるのである。

それはあたかも光に照らされることによって、始めて自己の影の暗さを知らされるが如くである。

かくして自己自身の無明煩悩の存在としての主体的な自覚は、如来の本願を聞信することによって成立し、如来の本願の聞信は、自己自身の無明煩悩の主体的な自覚によって可能となるのである。

即ち信の一念とは善導の二種深信の釈に明らかな如く、自身は現に無限の過去より罪悪生死の迷界に流転輪廻し続ける存在であって、未来永劫にかけてそれから出離しえないと信ずる機の深信と、阿弥陀佛の本願はかかる罪業深重なる自己を必ず摂取したもうと信ずる法の深信との二種の信相を、機の深信のところに法の深信が具し、法の深信のところに機の深信が添う如く、同時にしかも別体なき一信心の両面として持つところの、いわゆる捨機托法二種一具の深信に外ならないのである。

 かくの如く宗祖にあっては、この信の一念は迷と悟との分極として、ここにおいて如来の救済を受け浄土の証を得る分位におさめられながらも、しかもまだ自己が宿す無明煩悩によって、その浄土の証とはどこまでも遮断隔絶されていることを自覚せしめられたのであり、涅槃佛果の顕現はあくまでも未来でしかなかったのである。

このように既に浄土の証を得る分位におさめられながらも尚無明煩悩に纏わられていると言う信の一念の構造のところにこそ、宗祖がその得益論において正定聚と滅度とを分立し、それを現当二世に分属して、浄土の証果は悉く捨命以後の来世においてのみ獲得されうるものと領解した根本的且つ必然的な理由があると窺われるのである。

 即ち宗祖はこの信の一念において、無明煩悩に覆われながらも既に浄土の業因を成弁せしめられ、往生成佛を得証することに決定せしめられているところを指して、正定聚と言い不退転と呼んだのである。

だからこの正定聚と言い不退転と言うも、それは直ちに具体的生活面に顕われる機相について言うのではなくて、本質的には如来の本願を信愛するものに必然的に付与される宗教的な価値を意味するものに外ならないのである。

宗祖がこの正定聚を明かすについて時にそれを往生と説くことがあっても、それはあくまでも往生を得ることに決定せしめられたことを表わすものであり、またそれについて等正覚、便同弥勒、諸佛等同などと言うことも、全てこの信の一念において得るところの入信の巨益について嘆じたものであって、この現生正定聚が信心の具徳の所談であり、密益であると言われる所以である。

 以上の如く宗祖においては、阿弥陀佛の本願とその浄土とに対する徹底せる領解を通して、現実において如来の救済を受け浄土の業因を成弁せしめられながらも、また同時に自己自身の根源的な主体的自覚を通して、真実証果の究竟はどこまでも来世彼岸におくられるべきものとして、現生においては正定聚不退転の益が与えられ、当来において始めて滅度涅槃の証果を得証せしめられると言う、現当二世に亘る得益論を己証し提唱することとなったと考えられるのである。

このことは西山義において、往生に即便往生と当得往生とを語って観念的にこの現実における証果の獲得を許し、即身成佛的色彩を持っているのが信体験の不徹底さ、則ち無明煩悩の存在としての自己自身の主体的自覚の不徹底さに基づくものであり、また鎮西義において、信を往生の因としながらも尚それに散動ありとして臨終の来迎見佛を語って救済の成立を来世の一辺にのみ求めるのが、阿弥陀佛の本願とその浄土とに対する理解の不充分さに基づくものであるのに比べて、宗祖こそ最も正しく阿弥陀佛の本願とその浄土とを領解し、しかもまた最も徹底した信体験を持ったと言うべく、この宗祖による現当二益論の己証開顕によってこそ、浄土教は現生における救済の成立と、それに伴う絶対安定の人生の確立をもたらすところの現実に生きる宗教として、その真髄を遺憾なく発揮することとなったのであり、ここにこそ浄土教は始めて真実の浄土教として全顕確立されえたと言うことができるのである。




(1)宗祖における正定聚についての理解は『一念多念文意』に「かのくにの清浄安楽なるをききて、剋念してむまれんとねがふひと、またすでに往生をえたるひとも、すなわち正定聚にいるなり」(真聖全2・607)と示す如く、それを現生の益として見る外に浄土における得益として見る場合もある。 但しこの場合には従因至果の立場ではなくて、浄土における広門示現相として理解しているのである。
(2)宗祖が正定聚を現生における得益と領解した最も有力な根拠となったものは『如来会』の第十一願成就文であると考えられている。但し、是山惠覺『本典研鑚集記』(下・一一九)ではこれを否定している。
(3)峻諦『無量寿経会疏』巻四(真叢三・一五六)  僧叡『易行品義疏』三〇丁
(4)圓月『宗要百論題』(真叢一・四六四)  鮮妙『宗要論題決択編』(真叢一・四七二)
(5)山田龍城著『大乗佛教成立論序説』三五三頁
(6)『末灯鈔』(真聖全二・六七五)  「寿命無量を体として光明無量の徳用をはなれたまわざれば」
(7)僧叡『三帖和讃観海篇』巻三・一六丁
(8)寛寧『宗要開関』(真叢二・六六六)  善讓『真宗論要』(真叢二・六六八)
(9)鮮妙『宗要論題決択編』(真叢二・六九一)
(10)『自行念佛問答』(惠心僧都全集一・五六七)  「若し利根は此の理を知るが故に現身に成佛す。中根は順次に極楽に往生しまた彼にて修行す。下根の者は二生三生の内に極楽に往生して修行し成佛す』
(11)(12)善讓『本典敬信記』巻四(真全三〇・二七一)  圓月『本典仰信録』巻二(真叢七・二六六)
(13)僧叡『本典隨聞記』巻六(真全二六・二二八)  道隱『教行信証略讃』巻四・四三丁  善讓『本典敬信記』巻四(真全三〇・二七二) (14)『口伝鈔』巻中「体失不体失往生の事」(真聖全三・二二)