昭和57年2月・真宗学65号 抜刷 

13真宗における真俗二諦論の研究(その二(1)) 信楽峻麿

一、真宗における真俗二諦論の成立
二、近代における真俗二諦論の諸説

一 真宗における真俗二諦論の成立

 徳川幕府は、きびしい身分制度を基礎とした専制的、独裁的な政治体制のもとに、ゆるぎない社会秩序を確立したが、やがてその後半期になると、内部的諸矛盾が表面化しはじめてきた。

すなわち、幕藩体制下における農業生産力の増大とその他の産業および工業の発達によって、商業経済が飛躍的に進展してゆくこととなったが、そのことによって、封建社会の根幹であった武士と農民の生活がおびやかされ、次第にその地位が侵蝕されてゆくようになってきた。

そしてそのほか、さまざまな体制的矛盾が露出することによって、いままで堅牢であった幕藩体制にも亀裂、動揺が生じてきた。

幕府はそのような危機的状況を収拾するために、新しい武断政策による復古的転換をはかり、封建社会体制の補強再編を行なった。

いわゆる第八代将軍吉宗(1684〜1754)による享保の改革である。

しかしながら、幕藩体制は、この享保の改革にもかかわらず、なおも諸問題が次々と惹起してゆき、幕府は次いで寛政の改革や天保の改革を試みたが、いずれも不成功に終った。

封建社会全体にわたって噴出してきた多くの矛盾は、たんなる復古的改革をもってしては、もはや如何ともしがたいほどに深刻化し、幕府権力の衰退は徐々に進行してゆくこととなったのである。

そしてこのような政治的社会的状況を背景として、徳川後半期になると、その前期からの儒教や国学からの排仏論の延長として、さらには新しく生まれてきた経世論的な立場からの論議も加わって、きわめて辛辣な仏教排斥論が主張されてくるようになった。

このような状況の中にあって、真宗教団は、ともかくも自らの教団組織を擁護しようとするかぎり、その真宗信心が現実の社会体制に充分に有意義であり、すぐれて貢献するものであることを弁明し、かつそのことを実証してゆかねばならなかった。

その意味において、真宗教学は、いままでの王法為本、仁義為先のほかに、さらにはそれを補強するものとして、新しく自らの信心と世俗の価値体系の関係について強力な論理を必要とすることとなった。

かくして、かって本願寺教団の草創期において、存覚によって構築、主張されたところの当時の封建的支配権力との妥協、それへの従属の論理としての真俗二諦論が、改めて発掘され、再利用されることとなったのである。

すなわち、明和5年(1768)に刊行された秀円の『真宗安心茶店問答』には、

「真宗の規則、犯肉食は在家におなじくして、剃髪染衣は出家にひとし、真諦にそむかず、俗諦をやぶらず、真俗円融の活風、願力所成の円戒なり」

と示し、明和八年(1771)に講録された慧琳(1715〜1789)の『化身土文類六要鈔補』巻三には、

「仁王法王互に顕して鳥の双翼の如し。真諦の言は法王に係り、俗諦の言は仁王に係る。真俗逓に因て車の両輪の如し」

と説いている。

そのほか安永九年(1780)に講じた僧鎔(1723〜1783)の『顕浄土方便化身土文類聴記』第四(本典一H録)には、

「修心の教を真諦と曰ひ、治身の訓を俗諦と曰ふ。仏法、王法相資くること猶し車の両輪の如く、猶し鳥の双翼の如し」(真叢8ノ370)

と説き、仰誓(1721〜1794)の『持妻食肉弁惑編』には、

「三国七祖おのおのこの浄土真宗を興行したまふと雖も、七祖の如きは真のみにして化益周からず。故に七祖の真と太子の俗と、真俗不二非僧非俗の妙宗を開き給へるなり」

と明かしている。

ここでは真俗二諦ではなく真俗不二といっているが、それについての解説はない。

ただし明和2年(1765)に著した、『僻難対弁』によれば、

「凡そ仏法王法の二つは、車の両輪、鳥の両翼の如くにして、仏法より王法をたすけ、王法に依て仏法弘る」

と明かして仏法王法の相資を説いており、その点からすれば、それもまた真俗二諦の発想に重層するものと思われる。

管見によれば、これらの文が、近世真宗教学史において真俗二諦論が主張された最初に属するもののようである。

 このような真俗二諦論の主張がなされるようになったのは、すでに上にも指摘した如く、徳川幕藩体制の諸矛盾が表面化し、さまざまな亀裂、動揺が生じてきたのに対して、その体制の再編補強をめざして行なわれた享保の改革以来のことであるが、このことは、いっそう幕藩体制化していた真宗教学が、幕府の意図にすばやく呼応していったことを意味するもののように思われる。

すなわち、いままでの専制的な法度政治にもとずく幕藩体制が、内部的諸矛盾の顕露によって、次第に動揺し、弛緩してゆくこととなり、ことに農村の疲弊化による農民の貧窮と不安はいちじるしいものがあり、各地において百姓一揆が頻発するようになってきた。

そのような状況の中で、ことに農村を地盤として成立している真宗教団が、この新しい幕藩権力の動向に対応し農民を教化してゆくためには、従来の如き蓮如の信心解釈による、信心とは世俗価値としての政治権力や体制規範を自らの内面に包含するものであって、信心に生きるものは、また必然に、王法、仁義を大切に生きるべきであるという如き領解では、もはや不充分であり、対応しきれなくなってきたであろう。

すなわち、当時のこのような民衆を取り巻く苛酷な状況は、すでにその現実の政治権力や体制規範を自らの信心の内実として受けとめ、それを信心に必然する真宗念仏者の法度、掟として、無条件に奉持し、それに服従すべしという論理は成立しがたくなっていたにちがいない。

ここにこのような従来の信心為本に対するに王法為本、仁義為先という、信心に必然する法度、掟の論理とは別な、より積極的な新しい論理を求めざるをえなかったと思われる。

そしてまた近世においては、自我意識のたかまりによる現実主義的、合理主義的な、いわゆる近世的精神が発達していったが、そのような思潮傾向をうけて、伝統の仏教の在りようがきびしく問われるようになってきた。

すなわち、すでに見てきた儒教および国学などの立場から発せられた排仏論である(2)。

そしてことに徳川後半期になると、幕藩体制の弛緩と動揺、それに対する改革行政を背景として、ことに経世論的な立場から、社会的、政治的な政策論として、僧侶は遊民であり、寺院は民費を浪費するものであって、仏教は社会的には何等の意味を持たずまったく無用の存在である、すべからく政治的、経済的に統制すべきであるという如き、きわめて辛辣な排仏論が主張されてきた。

そしてそれについては、ことに貢租負担者としての農民に直接する真宗教団が、もっともきびしく指弾され、非難をうけねばならなかった。

真宗教学は、このような仏教無益論、無用論に対しても、自らの信心の現実性について、その現実生活、現実社会に対する積極的な意義について弁明し、主張しなければならなかった。

真宗信心は世俗的な価値体系、具体的には政治権力とその体制規範に対していかにかかわるか、という問題である。

ここにも従来の如き信心解釈においてはなお充分ではなく、さらに積極的な出世と世俗、信心に対する王法、仁義の関連性が、より強力に論理づけられねばならなかったわけであろう。

近世における真俗二諦論の主張は、このような政治的、社会的な状況、そしてそれにもとずく教団状況からの要請の中で、従来の蓮如の王法為本、仁義為先の論理を越えて、さらにはそれを補強するものとして、新たに存覚の真宗理解における真俗二諦相資相依の論理を発掘し、それを援用するということにおいて生まれたものであった。

そしてこの論理によって、世俗価値としての政治権力や体制規範は、明らかに出世価値としての信心とは異質であり、それに対立するものではあるが、にもかかわらず、信心に生きるについては、それとよく相依し相資すべきであると主張したわけである。

すなわち、真諦とは修心の道であって、法王に係り、俗諦とは治身の道であって俗王に係るものであって、その両者は明らかに異質なものであるが、しかしなお両者は車の両輪の如く、鳥の双翼の如くに相資相依して、真俗円融であれというのである。

このような幕藩体制の危機状況において、その再編補強政策が断行されていった時、かかる体制再編に見合う論理として、そしてまた、そのような社会的、政治的状況を背景として主張されてきた仏教無用論、仏教排斥論に対して、真宗信心の現実有用性を改めて積極的に弁明し、主張するための論理として、真宗教学が新しく打ち出したものが、かかる出世と世俗の妥協相資を語るところの真俗二諦論であったのである。

もとより、それと共に、従来の王法為本、仁義為先ということも、その伝統的な教化の綱格としては、引き続いてしばしば語られていったが、新しくこの真俗二諦論が主張されるに至ると、次第にその内容も、信心為本に相対するものとして王法為本、仁義為先が捉えられ、真俗二諦相資相依論的に解釈されていったわけである。

 そしてその後、近世真宗教学は、この真俗二諦論をいっそう強力に主張することによって、出世価値と世俗価値を対等に分割し、信心と王法、仁義の相資相依を語って、両者の円満的妥協を計りつつ、その封建体制によく順応し、そしてまた自己の教団の安泰を企図していったわけである。

文化元年(1804)に筆録された鳳嶺(1750〜1816)の『教行信證報恩記』巻第十二によると、

「真諦俗諦等とは、二諦の旨多義有りと雖も、今の用いるところは仏法王法の二のみ。心を修めるの教、之を称して真諦と為し、身を治めるの訓、之を名づけて俗諦と為す。(中略)真俗相扶して弘興す。喩ば両輪双翼の如し」(原漢文)

と説き、寛政5年(1822)に著わされた芳英(1764〜1828)の『教行信證集成記』巻六十七には、

「修心の教、之を称して真諦と為し、身を治めるの訓、之を名づけて俗諦と為す。国典を以って外を誡め、真教を以って内を修む。故に逓に因りて弘教と言う」(原漢文)

と明かし、また文政6年(1823)に著作された興隆(1759〜1842)の『教行信證徴決』には、

「真は心を修めるの教、俗は身を治めるの訓なり。二教相い助けて弘興する。両輪双翼の如きなり」

と示し、また文化、文政年間(1804〜1829)の頃に著わされた法海(1768〜1834)の『本典指授鈔』巻十六には、

「仏教に依って治むるは世法なり。世法に依って弘むるは仏法なり。(中略)今は仏法を真諦とし、世法を俗諦とするなり。仏法は心を治むる法故に真諦なり。世法は身を治る法故に俗諦と云なり」

と明かしている。

いずれも、仏法、修心の道を真諦とし、王法、治身の道を俗諦として、その両者の相扶、相助なる輪翼論を展開しているのである。

それらの中にあって、この真俗二諦についてことに詳細に論じたものに、性海(1765〜1838)の『真俗二諦十五門』がある。

この書は真俗二諦について、釈名、出体、義趣、相資などの分科に従って弁じたものであるが、ここでは真諦とは「利他の信楽を得て浄土に生ず」(龍大図書館所蔵本5頁)ることをいい、俗諦とは「仁義忠孝を以て身を修め仁王の教化に随ひ奉る」(5頁)ことと定義している。

そして両者の関係については、「真諦は内心にたくはへ、俗諦は外相を守り、現当二世の大益を仰ぐ、是を真宗の規則とするのみ」(6頁)と明かし、また、

「真諦を以て俗諦を資るとは、至愚なる者は人王の教化を施し学習の方便を断ず、是を教ふるに悪業の報由を示し善因の慶果を顕し、以て教化する時は、云何なる愚者と云とも悪を捨てて善を行ず、是仏法の別途なり。
爾る時は家を治め、国を修む、以て人王の化を資るなり。
又王法を以て仏法を資くるとは、来世に至る迄、四衆の力を徴弱なるが故に、三宝自然に衰堕に及ぶ、爾るに帝王の勢力を以て四衆を誡め、仏法を守護して、是によりて仏法末代に流通す。
今日の形勢則其相なり」(6頁)

と説いて、真諦と俗諦、仏法と王法が深くかかわって相資相依すると論じている。

しかしながら、このようにその両者の相資を語りつつも、性海はまた、

「諸仏と云へとも、此界へ出現し玉ふ時はみな国恩を受玉ふ。
諸経の説く処みな王法なるか故に」(6頁)

「五戒も原王法なり。諸仏も如此王法説き玉ふ」(7頁)

「俗諦の出体を論して見れば二重あり。一には三教を以て体とす、此位は絶対の人皇に約す。若し絶待の法皇を云ときは、真俗二諦仏事門中に具する出世世間にて仏の教へ玉へる法なり。若し亦絶対の人皇に約するときは、三教みな人皇の教へ玉へる法なり。其故は仏滅後においては、我法を国王に附属すると在る、末世には国王仏に代りて法を弘通し玉ふ故に三教共に人皇に約するなり」(23頁)

などと説いて、諸仏もこの世に出現すればすべて国王の恩をうける、諸経の説くところは、すべてみな王法であり、諸仏もまたひとしく王法を説きたもう。

仏制の五戒もそのもとは王法である。

また俗諦の体に二重があって、絶対の法皇に約せば、真諦俗諦ともに仏教であるが、もし絶対の人皇に約せば、三教(仏教、儒教、神道)はみな国王の教えである、その故に、末世においては国王が仏に代って仏法を弘通するのである、などとまでいっている。

ここには明らかに俗諦、王法中心の論理が展開されている。

性海はいちおうは真俗二諦の相資を語りつつも、帰するところは、俗諦優先、王法中心主義を主張しているわけである。

ここに性海の真俗二諦論の特徴があり、またここには、この時代の真宗教学が、自らを喪失して、いよいよ幕藩体制化し、その政治権力にからめとられていったところの性格が、明瞭にうかがわれてくるのである(3)。

 そしてやがて幕末に至ると、嘉永6年(1853)6月、アメリカの使節ペリーが来航したことを発端として、幕府は攘夷論と開国論の対立をめぐって大きく分裂するようになったが、また内には貨幣経済の発展にもとずく諸矛盾が激化して、政局は混乱し、事態はいよいよ紛糾していった。

そのことによって、幕府の権威は失墜の一路をたどり、それに代って天皇の地位が次第に浮上することとなり、尊王論が高まってきた。

このような政治的状況にあって、東本願寺教団は、家康以来の結合関係によって徳川幕府との連繋を保ちつづけたが、それに対して、西本願寺教団は、いちはやく尊王派に傾斜していった。

安政3年(1856)十月に著わした月性(1817〜1858)の『仏教護国論』によると、

「汝等微賤といへども、既に王土に生れ王臣となる。もし天皇愾に敵する心なきときは、此れ皇国の人民にあらざれば、則外国の人なり。夷狭の人民なり。墨魯暎仏の奴隷なり」

「安穏に腹を大平に鼓するは抑誰の力ぞや、豈東照神君乱を揆て正に反し征夷の職に任し、其賢子孫相続天下の大政をとり、四海を平治するの功にあらずや。苟もその恩沢に沐するもの、大将軍の憂慮して防備を厳にするの深意を受戴するの心なくして可哉」

「汝等大法主の教化により、無上の法を聞き、他力の信を得、現当二世の利益を蒙る者、夷船の諸所に欄入するを見きき、これを度外におき、大法主の憂るところを憂へざるは、また我門徒にはあらざるなり。他宗なり。他門なり。宗門の罪人といふべし」

「生きて報国の忠臣となり、名を千歳の後に耀かし、死て往生成仏し、寿を無量の永きにたもつに如んやと。(中略)皇国護すべし。而して仏法以て国と永く存すべし」

といっている。

ここでは、真宗念仏者は、天皇の忠臣として、また徳川将軍の恩顧を思い、そしてまた門主の憂慮をわが憂いとして、ひとえに皇国を護持すべしというのである。

そして「仏法以て国と永く存すべし」というわけである。まさしく仏法と国家の連結、相資の思想、さらには仏教による護国論の主張である。

そしてことに、ここでは俗諦としての王法が、天皇および徳川将軍の権威として理解され、しかも日本が神国、皇国と捉えられ、人民が天皇の忠臣と明かされていることは注意されるべきであろう。

仏法に対する王法、俗諦の内容が、幕末の動乱期においては、幕府権力から天皇権力に移行して捉えられていったわけである。

『学林万検』巻十七(龍大図書館所蔵)の安政五年(1858)四月の項によれば、学林は安居開講にあたって、ことに本山に達書の下附を申請しているが、その文面には、

「近年異国船渡来に付世上之風聞何分総々敷、自然大法弘通之故障も出来可仕哉と林門有志之者は時々慨歎仕居申候。
(中略)然に御開宗以来真俗二諦御双行の御化風而実に末世相応之真実教に御座候」

などと述べている。

近年は外国船も渡来して、政治状況もおだやかならず、破仏の形勢も濃厚であるところから、真宗開宗以来の真俗二諦の宗風を、いまこそ堅持すべく、学林の学生によろしく教訓されたいというのである。

ここには明らかに開祖親鸞以来の宗風として、真俗二諦が意義づけられているのである。

また文久3年(1863)一月には、西本願寺の広如(1798〜1871)は、

「当門は古来厚公武之御恩庇を奉レ蒙、随而は於2門末1も泰平鼓腹之世に生れ、安穏に令2寺務1候事は、全朝延幕府之御仁政に候得は、御国恩之程を思ひ、徒に可2傍観1時節には有間敷、為2国家1寺内相応之勤王報国には可レ竭2心力1儀に候(4)」

という、いわゆる勤王の直諭を発しているが、ここでもまた朝廷、幕府といいながらも、帰するところは勤王を勧励しているわけである。

そして慶応3年(1867)十月、大政奉還がなって幕府が消滅し、新しく天皇中心の維新政府が樹立されるや、西本願寺教団は、いちはやく天皇権力に対応し、それに隷属してゆくのである。

明治元年(1868)四月、本山が学林に下附した直命趣意書は、よくそのことを物語っているものである。

すなわち、

「旧冬王政復古御一新に付、御趣意之程厚奉2感戴恭順1心得違致間舗候。殊更今般浪華行幸に付、辱も津村坊舎仮皇居に蒙レ仰被レ留2玉座1候御事、実に一宗面目、惣本廟之規模相顕、別し而去月廿四日依レ召、両新門仮皇居参朝之処、奉レ拝2龍顔1尽力之旨御懇之蒙2叡慮1候事、無2此上1難レ有可レ奉レ存次第に候。門末之輩に於而も奉2感佩1可申候。抑浪華行幸之御義者、万民之人心を被レ為レ安候御趣意に候得者、兼而申示候通弥以勤王報国之志不レ令2忘失1、予か勤王に遵奉して自己之勤王など申募間敷旨、親敷及2直命1置候事に候得者、誠忠尽力可レ致勿論に候。当今之時勢に就而も法義弥増令2弘通1、無上之大法安穏に令2教導1候事、全王法之威徳御仁恵之余沢と可レ奉レ仰候。(中略)猶又王政御一新之御旨末々迄申諭し、尤行状堅固に相慎み懈怠に不レ流、天下遊民之名を不レ招様、修学専務に相心得、弥以真宗興隆仏法増レ輝、日夜に顕2誠志1候様希所に候也」(厳護録巻五・龍大図書館所蔵)

と明かすものである。

それは昨年の冬、王政復古、御一新が成ったについては、その御趣意をよく感戴し、それに恭順すべきであって、心得ちがいのないよう呉々も気をつけるべきである。

今般は天皇が大阪の津村別院に行幸されて、尽力せよとの懇望の叡慮を蒙ったが、まことに無上の光栄である。

門末もその趣旨を深く感佩して、かねて教示した如くに、いよいよ「勤王報国の志」を忘れずに、「誠忠尽力」をいたすべきであるというのである。

この文は明らかに、真宗教団が王法、天皇権力に拝跪し、それに対して誠忠尽力、勤王報国を誓う姿勢を示したものであって、このような思考、態度が、そのまま当時の真宗教学の中に持ちこまれていったことはいうまでもない。

そしてまた、同じ明治元年九月に発せられた直命趣旨書には、

「予が旦暮之苦慮を察し、護法之忠節を尽し、名分を知り、御国体を弁へ、真俗二諦不2相妨1様、門徒末々迄も厚申諭し、諸共に法義相続し、天恩を感戴し、聊に而も国家之御稗益に相成候へば、身の肘を使ひ、肘の指を使ふが如く、予が勤王之微衷行届可レ申本懐不レ可レ過候」(厳護録巻五)

とあって、ここには明確に真俗二諦の語が用いられ、それが門徒末端までにあつく教諭されるよう求められている。

ここでいう俗諦とは、すでに明らかな如く天皇権力を指しているものである。

そしてこの頃から、俗諦とは、ひとえに天皇権力を意味するものと規定された上で、この真俗二諦の語が教義用語として、公的に頻繁に使用されていったようである。

『学林万検』巻24の明治2年(1869)十月の項によれば、本山において行なわれた法談試験(5)の問題に、内学六題の一つとして「真俗二諦」が出題されたことが記録されているが、その点からしても、当時の教団内においてこの真俗二諦の用語は、すでに定着していたことがうかがわれるのである。

そしてこのような背景をもって、明治4年(1874)9月に、広如遺訓の消息が発せられたが、そこでは、

「夫、皇国に生をうけしもの、皇恩を蒙らざるはあらず。
殊に方今維新の良政をしき給ひ、内億兆も保安し、外万国に対峙せんと、夙夜に叡慮を労し給へば、道にまれ俗にまれ、たれか王化をたすけ、皇威を輝し奉らざるべけんや。
況や仏法の世に弘通すること、偏に国王、大臣の護持により候へば、仏法を信ずる輩いかでか王法の禁令を忽緒せむや。
是によりてわが宗におひては正法を本とし仁義を先とし、神明をうやまひ人倫を守るべきよし、かねてさだめおかるる所なり」

「希くは一流の道俗、上に申すところの相承の正意を決得し、真俗二諦の法義をあやまらず、現生には皇国の忠良となり、罔極の朝恩に酬ひ、来世には西方の往生をとげ、永劫の苦難をまぬかるる身となられ候やう、和合を本とし自行化他せられ候はば、開山聖人の法流に浴せる所詮此うへはあるまじく候」
「右消息者、前住之遺訓而、祖師相承之宗義、真俗二諦之妙旨也。
浴2一流1輩、本2此遺訓1進而者遵2政令1、退而者弁2出要1候事、可レ為2肝要1者也」

と示されている。

すなわち、真俗二諦とは、真諦とは「来世には西方の往生をとげ、永劫の苦難をまぬがるる身となる」ことであり、俗諦とは「現生には皇国の忠良となり、罔極の朝恩に酬ひ」ることであって、ことにその俗諦については、「王法の禁令を忽緒せ」ず、「王法を本とし仁義を先とし、神明をうやまひ人倫を守るべき」であると教誡されているのである。

そしてその真俗の二諦、来世の西方往生と現生の皇国忠良、来世のための仏法と現生における王法とは、よく相依すべきであって、「進而者遵政令、退而者弁出要」と明かしているのである。

ここにおいて、西本願寺教団においては、従来から主張されてきた真俗二諦の教義理解が、公式に明確に、真宗における「祖師相承之宗義」として規定されたわけである。

東本願寺教団においても、この真俗二諦の思想は、同じ頃の厳如の消息に見ることができ、真宗教団は東西本願寺ともに、明治初年ころから、教義として公的に真俗二諦を説き、ことには俗諦を天皇権力と規定しつつ、その主張を推進していったのである。

 そして西本願寺教団においては、明治19年(1886)一月に、明治政府の監督のもとに宗制を定め、その教旨(教義)について、

「一宗の教旨は、仏号を聞信し大悲を念報する、之を真諦と云ひ、人道を履行し王法を遵守する、之を俗諦と云ふ。是即ち他力の安心に住し報恩の経営をなすものなれば、之を二諦相資の妙旨とす」

と規定したのである。

かくしてここに真宗教義の綱格としての真俗二諦説が成立し、それ以降この真俗二諦論は、近代における真宗教学の性格を決定的に方向ずけていったのである。


二 近代における真俗二諦論の諸説

 そこでさらに近代の真宗教学において、この真俗二諦論がどのように受容され、解釈されていったかについて、いまはことに近代初頭から第二次世界大戦までの、主なる学説を中心として考察を試みることとする。

それについては、それらの学説を、その内容にしたがって便宣的に、(1)真俗一諦説、(2)真俗并行説、(3)真俗関連説、(4)真諦影響説、(5)俗諦方便説に区分して見ることとする。

なおまたこの真俗二諦論は、大戦後においてもなお依然として継承され、今日の伝統真宗教学にその影響を色濃く反映しているところである。

その点、この真俗二諦論への徹底した批判とその克服なくしては、親鸞におけるまことの念仏、信心の意趣を明確にすることは不可能であると思われるが、その問題については改めて考察すべきことである。

(1)真俗一諦説

 真俗二諦説に関する理解について、それを何らかの意味において、基本的には一諦として捉える考え方がある。

福田義導(大谷派)、前田慧雲(本願寺派)、七里恒順(本願寺派)、金子大栄(大谷派)らの理解である。

 福田義導(1805〜1881)には多数の著書があるが、その中でことに真俗二諦について論じたものに、『勤王報国弁』(明治元年)『天恩奉戴録』(明治元年)『天恩奉戴附録』(明治五年)『真宗王法為本談』(明治十年)などがある。

それらによると、真俗二諦の語義については、『大乗義章』によって、真諦とは「絶妄を真といふ之を第一義諦とも云う」とし、俗諦とは「世俗の知る所にして浅近の事を俗諦といふ」と明かし、「別して一宗の二諦とは仏法と王法との二諦なり(6)」と規定している。

そしてその両者の関係については、基本的には二諦は相資相依するものであって、「王法を以って仏法を崇め(7)」「仏法を以って王法を守る(8)」と論じている。

存覚の『破邪顕正抄(9)』に明かされる論理である。

そこでその真諦の仏法については、『真宗調査四題講義』では、ことに信心正因と現生不退について論じているが、この福田における真諦、仏法の理解について注目すべきことは、仏法はまた神道、儒教と一体であるという解釈である。

すなわち、『天恩奉戴録』によれば、

「三道と分かれても教義は一也。一なるゆへんに二あり。一には諸悪莫作衆善奉行、勧善懲悪の理一なり。二には仏法の五戒、儒教の五常、神道の慈悲正直、その名異にして体一也。(中略)神儒仏の三道は暫く広狭浅深の差別あれども、同じ教也」(続真宗大系巻17ノ87頁)

と明かし、さらにその三教の関係を論じて、『真宗王法為本談』では、

「神儒仏の三道は、共に勧善懲悪の教にして最も至誠至善の道なり。故に此の三道は伊字の如し、鼎足の如し、一もかくべからず。中において仏法は根源也。

神儒二道は仏法中より流出せる分教なり」(巻下一丁)

「仏法は本也。神儒は末也。仏法の本を堅固にせば神儒の末までもよく堅固にひろまるべし」(巻下八丁)

と論じ、さらにはまた、

「仁義の道も源は仏説なることあきらけし、(中略)神道も仏説なり、孝養の道も仏説なり」(巻上一八丁)

と語って、仏教、神道、儒教の三道は、帰結するところ勧善懲悪の教法にして、ついには一体であり、さらにはまた、その神道、儒教とは仏法中より流出したものであって、神道といい、儒教というも、仏説にほかならないというのである。

このような理解は、近世真宗教学史における、きびしい排仏論に対応して生まれた儒教、神道、仏教の融合論を背景とするものであることは明瞭であるが、近代初頭における真諦、仏法に対する理解の特色として注意されるべきところである。

次にその俗諦の王法については、『真宗調査四題講義』では、ことに王法為本と人道大旨について論じているが、その王法については、「王法といふは国王の法度(10)」のことであると規定し、「外相には戒行戒律の沙汰もなく、ただ王法に随ひ之を守るを以て真宗の宗軌とす、そこで王法為本といふなり(11)」と明かしている。

またその俗諦について、『勤王報国弁』によれば、

「すべて仏法に真俗二諦ありて、俗諦門より云へば、仏経は鎮護国家の宝典にして、治国平天下の法なればなり」(続真宗大系巻17ノ95頁)

と示し、またさらに『天恩奉戴附録』では、

「大経一部上下二巻具に之をよむといへども戒律の文なく、唯王法を守って人道に順ずべきことを説きたまへり。これを以て真宗の宗軌と定むる所なり。即ち五悪段をみていよいよ王法の禁令をおそれ、人道を守るべきことなり」(続真宗大系巻17ノ92頁)

と語って、真宗所依の経典である『無量寿経』とは、王法を遵守し、人道に随順すべきことを明かすものと理解していることも、充分に注意すべき点である。

そしてさらには、

「此経によって念仏勤行する者は、別して、皇上を奉戴し朝旨を遵守すべし」(天恩奉戴附録・続真宗大系巻17ノ92頁)

といい、

「真宗の僧徒は真宗の経論釈をもって勤王報国すべし」(天恩奉戴附録・続真宗大系巻17ノ88頁)

と明かしている。

すなわち、経典、ことには真宗所依の『無量寿経』およびその他の経論釈は、俗諦門からいえば、すべて王法を守り、人道に順ずべきことを説くものであって、真宗念仏者たるものは、また必然に、「皇上を奉戴し朝旨を遵守すべし」「勤王報国すべし」というのである。

そしてまた、この俗諦の王法・人道については、ことに、

「吾神州は万国に超越して、神明造生の宝国なり」(天恩奉戴附録・続真宗大系巻17ノ91頁)

「今此日本に住するものは大神宮の地に住す」(真宗王法為本談巻上三丁)と説き、

「然れば念仏行者必ず神明を尊敬すべし、別して此神国に住する者は猶更のこと也」(天恩奉戴附録・続真宗大系巻17ノ89頁)

と示して、この日本が神国であるところ、念仏者はひとしく神明を尊敬すべきことを論じている。

なおまた、

「若人民ありて、よく善心を行じ仁王を敬輔し尊重すること仏の如くすれば、この人現世安穏豊楽なり・願求する所あれば心にかなはざるはなし」(真宗王法為本談巻上九丁)

などと語って、天皇を敬輔し尊重すること仏の如くすべしと明かしていることは、その俗諦の理解において、ことに注目されるべきところであろう。

 かくして、その真諦と俗諦の関係については、『真宗調査四題講義』に、

「王法をまもる者は仏法を信ずべし(中略)仏法を信ずるものは王法をまもらねばならぬ」(七丁)

と説く如くに、両者はよく相資相依すべきであるというのである。

しかし、ここでいう相資相依とは、異質の両者が、よく関連し、相依するということではない。

すでに上にも見た如く、その真諦、仏法とは、また神道、儒教と一体であると捉えるところ、その神道の側面からすれば、その国学の論理を通して、皇上奉戴、王法遵守にかかわり、またその儒教の側面からすれば、また当然に人道随順にかかわるものであって、真諦、仏法からの俗諦、すなわち王法、人道への展開は必然であり、またその俗諦、王法、人道については、すでに経典、別しては『無量寿経』その他の経論釈に、王法を守り人道に随うべきことが説かれていると理解するところ、またそれは真諦、仏法の中に属するものであって、ここで真俗二諦とは、その関係は、独立する両者が相資相依するというよりも、両者はより密着し、よく重層するものであるというべきもののようである。

その点、ここでいう真俗二諦とは、いちおうはその二諦が相資相依するといいながらも、それはより具体的には、両者が重層するものであり、そしてまたその重層の構造については、『御消息集第二章甲子録』によれば、

「此国があればこそ此国のおかげで此国へ生れ出て、仏法を聴聞し、未来は浄土へ往生すべき身となりしことをおもうて国恩を報ずべし」(真宗大系巻23ノ376頁)

といい、また『天恩奉戴録』には、

「すべてわが皇国に生れ出たる人々をば一子の如く憐念したまひ、上下貴賤山樵海漁の類までも現当二世安楽ならしめんとの叡慮を拝承仕り候ては、合掌九拝するになお余りあり」(続真宗大系巻17ノ84頁)

と語り、また『天恩奉戴附録』にも、

「此所の皇恩は現当二世の大恩なり。故に殊に重しといへり」(続真宗大系巻17ノ93頁)

と明かして、天皇の憐念においてこそ、仏法を聴聞し、浄土に往生することが可能となるのであって、国恩、皇恩は、現世と来世の二世にわたる大恩であるというのである。

このことからすると、俗諦としての王法、天皇の恩沢が、ついには真諦、仏法をも覆うこととなるのであって、ここでいう真俗二諦とは、その二諦の重層を意味するが、またその真諦は俗諦、王法に収拾されてゆくのであって、ここで明かされる真俗二諦とは、いちおうは二諦であっても、本質的には俗諦、王法中心の真俗一諦説といわねばならないようである。

 前田慧雲(1857〜1931)の真俗二諦に関する論考は、『真宗道徳新編』(明治23年)『仏教人生観』(明治40年)などに見ることができるようである。

それによると、真諦とは、「阿弥陀仏の救済力に依憑して後生涅槃那に証達すべき安心立命法」をいい、俗諦とは「倫理道徳を履行して人生百年の快楽を享受すべき修身渉世法」(真宗道徳新編・前田慧雲全集第3巻71頁)をいう。

すなわち、真諦とは、未来後生の解決をめざす安心立命の法であり、俗諦とは、現世人生の充足をめざす修身渉世の法のことである。

そしてこの真諦と俗諦とが「相依り相資けて、而して之を信奉する者をして二世の幸福を獲得せしむる」(同全集第3巻71頁)ことをもって、真宗教義の大綱とするというのである。

ここで注意されることは、真諦とは「後生」のためのもの、俗諦とは現実の「人生」のためのものと捉え、この真俗二諦によりて「二世の幸福」をうるという理解である。

そしてまた、ここではことに俗諦の理解において、従来の王法という観念にかわって、倫理道徳が中心になっていることも注目されるべき点である。

 そこでその真諦と俗諦との関係についてであるが、いちおうは両者を相資相依と捉えるものの、真諦から俗諦へについては、その『真宗道徳新編』によれば、

「阿弥陀仏の救済力即ち純全他力に於て安心立命する上は、未来に向っての祈祷心を脱離して悠々快適の情と共に一生の全力を専ら現生の事にのみ用ふることを得るを以て、修身経世に於て綽々乎として遊刄余地あり。言を換へて之を言へば、阿弥陀仏は吾人の未来祈祷の担任者となりて、吾人をして毫も顧慮の念を懐かずして、畢生の全力を修身斉家利用厚生に与へ、以て各自の幸福を増進して社会の良民たるを以て己に報酬するの義務となさしむるなり。是を真諦を以て俗諦を資くると謂ふ」(全集第3巻71〜2頁)

と明かしている。

すなわち、人間というものは、誰しも未来後生の苦楽について不安を抱き、それについて幾分か現生の心力を注ぎ、祈祷の念をもつものであるが、信心をえて阿弥陀仏の救済において安心立命をうるならば、もはや未来後生に対する不安がなくなるところから、今生においては、全力を傾倒して修身斉家の道を生きることとなる。

ここに真諦が俗諦を資けることとなるというのである。

それについて前田はまた、同じ『真宗道徳新編』において、

「宗教信徒の道徳は未来の希望心より生ずるものなり。故に真宗の道徳は他力の信心を以て其基本と為して、一切の善行は皆之より生ず。蓋し他力の信心といふは、阿弥陀仏が吾等の未来祈祷の為に代理者担任者となりて、吾等に向て毫末の修善を要求せず、無為無作にして涅槃那の妙果を得せしむることに於て、全く疑惧顧慮を離れて只管に仏陀の慈悲を感戴するの心なり。是を以て他力の信心には、未来の楽果を希望して歓喜踊躍して手の舞ひ足の踏むを覚えざるの妙作用あり。此の妙作用によりて報恩の責任を全うせんとするの情ありて勃々焉として■〔分+土〕湧発興す。所謂「慶喜心のおこるしるしには仏恩報謝のおもひあり」とは是れなり。而して所謂報恩の作業は上に述べたるが如く、修身経世利用厚生の外あらざれば、苟も信心歓喜を具するものに於ては、必ず喜で善行を修し勇で道徳に進むことを得るなり」(全集第3巻77〜8頁)

ともいっている。

他力の信心には、未来の楽果を望んで歓喜踊躍し、手の舞い足の踏むを覚えざるほどの妙作用が生まれてくることとなり、それによって必然に、喜んで善行を修め、勇んで道徳に進むようになるというのである。

すなわち、真諦の信心は、そのまま必然に、俗諦、倫理の実践を生起せしめることとなるというのである。

またその『仏教人生観』においても、

「仏の監督によって道徳の実行が出来ることになるのである。是が宗教的道徳と云ふもので、世間倫理と趣を異にするところである。要するに宗教は決して倫理道徳と背反するものではない。「善も欲しからず悪も恐れなし」と云ふ絶対平等の大慈悲力が根底となって、倫理道徳が実行せられることになるのが宗教である。

茲に於てか世間の倫理道徳が、単に人と人との関係を規定するのとは異なって、宗教では其根底を絶対たる仏の慈悲に置いて、之によって実行上常に偉大なる力を与へられるのである。

(中略)宗教信者と云はれる人が、世間に於て道徳上あるまじき行為を敢てするのは何故であるかといふことであるが、併し斯様な人を直ちに真の信仰者と断言することは出来ない所もあらう」(全集第5巻111頁)

といっている。

真諦、信心をうるならば、仏の監督により、大慈悲力が根底となって、俗諦、倫理道徳が実行できるようになるのであって、信者にして、道徳上あるまじき行為を犯かすものは、真の信仰者と断言することは出来ないところもあろうというのである。

かくして前田においては、真諦から俗諦へは必然に展開してゆくということであった。

そしてまた俗諦から真諦については、その『真宗道徳新編』によれば、

「阿弥陀仏を信ずる者が一生の全力を修身経世の道に尽して、為に自他の幸福を増進することあるときは、他の人民は皆之を以て阿弥陀仏功徳の致す所となして、其教を尊奉して社会生存の要素たらしめんと欲するに至るを以て、真勢力の盛にして弘通の速やかなること驟雨の早田に於けるが如きものあらん。是を俗諦を以て真諦を資くると謂ふなり」(全集第3巻72頁)

といっている。

すなわち、真諦、信心にもとずいて、俗諦の修身経世の道を全うするならば、他の人々がそのことを見て、阿弥陀仏の教法の功徳を知ることとなり、やがてその教法を尊崇し、聞持することとなるであろう。

ここに俗諦が真諦を資けることとなるというのである。

ここでいう俗諦から真諦へとは、同一人格についてではなく、他人格に対する影響をいうわけである。

この点は、前田における独自の理解として注意されるべき点であろう。

なおこのような理解は、また同じ時代に生きた薗田宗恵(1862〜1922)の『仏教道徳観』(明治43年刊)にも見られるものであって、そこでは、

「真諦門は安心決定、俗諦門は信後の報恩行、真俗相待ちて相資けるので、その資けるわけは往生の一大事は仏の方に決定し玉ふ。

吾等は何の心配もなく総べて往生の一大事は仏の方に決定し玉ふ。

吾等は何の心配もなく総べて往生の一大事は弥陀に任かせ、浄土参りに苦労する全力を挙げて国家の方へ尽くすことが出来るのである。

これは真諦の俗諦を資ける力である。

信仰の熱血が溢れて国家社会一身をおさむる原動力となり、他人は何れも皆これを仰ぎて阿弥陀仏の功徳の致す処とし、妙好人のする事は社会を平和ならしめ、立派な者だと云ふてその徳を仰いで、吾れもあの徳を得たいと、真宗法義を社会生存の一要素とする考へが起る、これは俗諦が真諦を資くるのである」(76〜7頁)

と語っているのである。

 かくして前田においては、真諦俗諦の関係は、このように相資相依するというわけであるが、更にその深義を探ねるならば、

「真諦と云ふも俗諦を全うしたる真諦にして単独の真諦に非ず。又俗諦と云ふも真諦を全うしたる俗諦にして単独の俗諦に非ず。

二諦渾鎔互融して各々絶対の性質を有する者と謂つべし」

「俗諦果して何処にありや、其体なきにあらずと難、既に真諦に収拾し去られて毫も俗諦の痕迹を留めず、豈真諦は俗諦を全うしたる絶対的の者にあらずや」

「真諦果して何処にかあるや。其体なきにあらずと難、既に俗諦に収拾し去られて毫も真諦の相なし、豈俗諦は真諦を全うするの絶対的の者に非ずや」(真宗道徳新編・金集第3巻73〜4頁)

という如くに、二諦は互融して、真諦とは俗諦を全うじたる真諦であり、俗諦というも真諦を全うじたる俗諦であって、ついには、絶対としての真諦一諦となり、また俗諦一諦となるというのである。

ことに前田は、それについて、更には、

「若し俗諦を主として論ずるときは、真宗の教義は信心も念仏も皆俗諦中に収拾し去れて俗諦の外に一法もあることなし」(真宗道徳新編・全集第3巻74頁)

とも明かすのであるが、このような理解からするならば、真俗二諦の関係は、いちおうは相資相依と語り、また両者は互融して絶対となるといいながらも、ついにはそれを俗諦に帰一して捉えるという発想もあったことがうかがわれるのである。

それについては、ことにこの『真宗道徳新編』が著わされた明治二十年代は、真宗の教学と教団が、近世後期から近代初頭にかけて盛んであった排仏論の影響をうけ、また新しく確立されていった天皇制国家体制に組み込まれてゆくことによって、いっそう現実の世俗的価値体制に接近、癒着し、自ら国家仏教としての性格を強めていった時代であった。

前田は、そのような状況にもとずいて、もっばら、真宗の教法は「厭世教」(真宗道徳新編・全集第3巻75・77頁)ではなく、「利世教」(同72頁)であることを強調し、それが現実の国家、社会に有用であることを論じるわけであるが、すでに上に見た如く、真諦、信心とは、ひとえに未来後生のためのものであると理解するところ、その利世教としての現実的有用性は、必然的に俗諦に求めざるをえなくなるわけである。

かくして前田は、「元来宗教と道徳とは或方面から云ふときは、宗教即ち道徳といふことが出来る」(仏教人生論・全集第五巻107頁)といい、また「特に仏教では普通の倫理が教へるよりも尚ほ一層世間の道徳を緻密詳綱に説いてある」(仏教人生論・23頁)ともいう如く、真宗の教法を、もっぱら俗諦の倫理道徳に収拾して理解するのである。

上に引用した「真宗の教義は信心も念仏も皆俗諦中に収拾し去れて俗諦の外に一法もあることなし」という主張は、まさしくかかる立場から生まれたものであろう。

その点からすれば、前田における真俗二諦説は、いちおうは真俗二諦の相資相依を語るとしても、それはより本質的には、俗諦、倫理中心の理解をもっていたといいうるようである。

 七里恒順(1835〜1900)には『真俗二諦』(明治12年写)と題される筆写本が伝えられている(12)。

それによると、真諦とは、「願海本然の法」(真宗研究会紀要第8号117頁)にして「安心」をいい、それが「願海の正所誓」「転速開悟の要法」(117頁)の故に真諦と名づけ、俗諦とは、「因果自然の理」(27頁)にして「掟」をさし、それが「経世の術」「勧善徴悪の則」(117頁)の故に俗諦と呼ぶといっている。

そしてその体についていえば、真諦とは、本願文の三信十念を体とし、俗諦とは、五戒、五常を体とするとし、ことに俗諦の法則については、「宜く皇国の三法により、諸経の説によりて此を論す可、近くは、御高札三定の札によりて此を決論す可(13)」(118頁)と明かしている。

またその所依については、真諦とは、本願文の三信により、俗諦とは、その唯除等の文によると解しているのである。

 そこでその真諦と俗諦の関係については、両者は相互に助成するものであって、「俗諦に依って真諦を成ずる」「真諦より俗諦を成ずる」(122頁)とするのである。

はじめの俗諦によって真諦を成ずるとは、「因果の理を信ずるが故に願生浄土の意起る」(123頁)ことをいうのであって、俗諦において善悪因果の道理を学び、勧善徴悪の法則に従って生きてゆくところ、やがては世俗に対する「厭穢の心」を生じ、浄土への「願生の信」を生ずることとなるというのである。

そしてまた真諦によって俗諦を成ずるとは、信心を獲得した人は、その信徳によって、「内に広大の仏智を領し」「外に光明の照触を蒙る」(123頁)こととなるが故に、自然に身心が柔軟となり、三業を制することとなるというのである。

かくして、俗諦は真諦を助け、真諦は俗諦を成ずるというのである。

そしてこの俗諦を語る所以について、三難三過を妨ぐためであるといっている。

その三難とは、外部からの非難であって、仏法は「人倫を破る」「国益なし」「邪教に同ずる」(124〜5頁)という三種の非難をいい、三過とは、仏法内部における過失であって、成仏の「道路を塞く」「邪見に堕する」「弘通を妨ぐる」(125頁)という三種の過誤をいう。

いま俗諦を守るべきことを明かすのは、これらの外部からの三種の非難を防ぎ、内部における三種の障害を正すことをめざすものであって、それによってこそ、よく真諦を成就し、その教法が弘通することとなるというのである。

かくして、この七里における真俗二諦についての理解は、真諦とは信心、俗諦とは掟としての人倫、道徳のことであって、その両者は互いによく相成する関係にあるというのである。

その点、それは基本的には二諦相資相依説に属するものというべきであろう。

 しかしながら、また七里には、その法語を収録した『七里和上言行録』(明治45年刊)というものがあるが、その中においても、真俗二諦についてしばしば言及しているのである。

これらの法語は、前掲の『真俗二諦』よりもかなり後に成ったものと思われるが、そこでは真諦とは、「未来の苦を除く方」(516頁)「未来の安楽を得る道」(519頁)であり、俗諦とは、「此世の苦を除く御法」(516頁)「此世の安楽を得る道」(519頁)であるといっている。

きわめて平易に教説されているが、内容的には、上に見た『真俗二諦』における理解と共通するものである。

ただし、その両者の関係については、上に見た理解とはかなり異った見解が示されていて、充分に注目されるべきもののようである。

すなわち、そこでは、

「真諦門の方では何も彼も捨てねばならぬ。俗諦の方は王法為本と云ふて、飽くまで渡世職業に勉強せねばならぬ。(中略)そこで真諦の方では世間を捨てて往生を願ひ、俗諦の方では世間に力を尽すが真宗ぢゃ。サァ貴公達は実際此世が捨てられたか。繋いだ船なら何程棹をさしても行きはせぬ。纜の弛んだだけは行くけれども、纜を引張ると又後へ戻る。御浄土へ参りたいと思ふも、世間の縄が弛んだだけでは又後へ戻るぞ。夫で行くかと思へば戻る。戻るかと思へぼ少々進む。行ったり戻ったり、戻ったり行ったり何程でも限りはない。そこで真諦の方ではさっぱり世間の執着を断って仕舞ひなさいや」(667頁)

といっている。

真諦とは、世俗を捨て往生を願うことであり、俗諦とは、世間にとどまって渡世職業に力を尽すことであるが、問題は真諦において、どれほどに世俗が捨てうるかということである。

その法語にはまことにきびしいものがある。

そしてまた、その真諦と俗諦の関係については、

「捨てよと云ふこともあり、又尽力せよと云ふこともあるが、捨つる処はすっぱり捨てる、取る処はやっぱり取る、是が真俗二諦の御宗風ぢゃ」(669頁)

「真諦の方は此世を捨てる。俗諦の方は此世を取ると云ふ話ぢゃが、一寸聞くと無理な様にあって、一時に出来はすまいと思はるけれども、一遍捨てて夫からは取ると云ふ様に、時を隔てることではない。一時同時に出来るのが、此宗旨の妙味である」(712〜3頁)

「先づ思ひ切って此世を一つ捨てやうぢゃないか。是が言を云ふなら黙って云へ。走るなら据つて走れと云ふ話になってある」(669頁)

などといっている。

真諦とはこの世を捨てること、俗諦と、はこの世を取ることであって、両者はまったく矛盾対するものであることを明かしている。

そしてこの真諦と俗諦の関係は、このように絶対的に矛盾対立するものでありながら、しかも同時に即一するものであるとして、それは時間的に前後して関係するものではなく、まったく同時に、矛盾的自己同一的に成立してゆくものであるというのである。

「言を云ふなら黙って云へ」「走るなら据って走れ」とは、そういう両者が矛盾的自己同一的に成立する構造を、よく平易に表現したものであろう。

このような真俗二諦の関係構造については、七里はさらに、

「初めは世間を棄てよと云ひ、今は又世間を美しうせよと云ふて、全く前と齟齬するではないかと云ふが、是に答へて曰ん。
固より世間は棄てねばならぬ。
其ならば世間を棄てるときには、家も田地も悉く棄てるのですか。
共通りぢゃ。
夫では人道も租税も何もありはせぬではないか。
イヤ世間を棄てても人道は守らねばならぬ。
其人道を守るは世間を捨てた処で守られる。
棄てねば決して守られはせぬ。
何となれば、皆の心得は五欲の身を貪求するから悪いのぢゃ。
一旦如来様に差上げた世間なれば、其を借りて用ひねばならぬ」(769頁)

と語っている。

真宗信心においては、どこまでも世間は捨てられるべきものであって、俗諦、人道とは、この世間を捨てたところ、すなわち、真諦においてこそ、よく守ることができるのであって、それはまさしく、如来に差し上げた世間を、改めて如来から借用して生きることであるというのである。

どこまでも真諦を中心とする、真諦の一諦を基軸とする発想である。

このような理解はまた、

「マアこの茶臼のやうなもので、真木は一本でなくてはならぬ。
若し二本にすると必ず臼は廻らぬ様になる。
(中略)当流の法義も其通り、先づ安心と云ふ時は、信じたから是れでといふ心の中に据はりが出来ると、大悲の御主人と真木一つに委せる所が即ち据はりとなる。
又かう称へてこれでと据はると亦真木が二本になるから不都合になる。
俗諦の掟も此通りで、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友といふ五倫いづれも、必ず自らは据は
りといふ真木を立てずに日送りをするが即ち念仏行者の心の据はりである」(861頁)

と語るところにもうかがわれるものである。

それによれば、真俗二諦とはいうものの、茶臼の真木は二本あっては廻らず、それは必ず一本でなければならないように、どこまでも如来の大悲を真木として、すなわち、真諦、信心を軸としてこそ生きよと示すものであろう。

村田静照の『伊勢法語』に七里の真俗二諦説を伝えて、

「当流に真俗二諦門がある。
普通どの宗旨にも真俗二諦ということはあっても意味がかわって居る。
また真宗でも、博多の和上さまのお話と、ほかのお方の説かれるのは大層かわっておりますから、よほど注意をせねばなりません。
真諦は未来のこと、俗諦の俗はおんぺい(掩蔽)というて物がおおうこと、現世のよわたり(生活)です。
一般の説くように、現世の世渡りと未来の方と二様に重きを置くときは、二向宗になって一向宗とはならぬと、常に和上さまは仰せられた(14)」

と明かしているものは、上の如き意趣をよく物語るものであろう。

 かくして七里における真俗二諦についての理解は、その初期の『真俗二諦』においては、両者の関係を、二元的に捉えた上で両者の相資を語っているが、後の法語においては、かかる相資説は見られず、むしろ専ら両者を矛盾対立の関係における即一として捉え、さらにまた、ことに真諦、信心中心、真諦の一諦ともいうべき立場に立っていることがうかがわれるのである。

この点は、七里の真俗二諦説として充分に注目されるべきところである。

 金子大栄(1881〜1976)の真俗二諦に関する論考は、主として「世間善と出世間善」(仏座第20号・昭和2年)「真俗二諦に就て」(真俗二諦観集・昭和2年)などに見ることができるようである。

金子における真俗二諦説の特色は、親鸞には俗諦の説は存在しなかったとする点である。

すなわち、

「親鸞聖人には俗諦の説はないと、斯う考へても少しも差支はない、宗祖親鸞聖人には、唯真諦の説があるのみであって、仁義道徳を守れといふやうな教はなかったのであると、斯う云って少しも間違ひはないと思うのであります」(仏座第20号4頁)

「親鸞聖人には俗諦がなかったといふことをはっきり云ってよかろうと思ふ。
親鸞聖人の一代は、ただ一途に真の道を求めて進まれたのであります。
世間の善悪とか、世間の仁義道徳といふことは問題ではない。
問題でないといふ事は、親鸞聖人がそんなことは考へて居られなかったといふ事でない。
或は考へもせられたであろう、困りもせられたでせう、併し乍ら考へも困りもせられて居れば居る程、それは親鸞聖人に対しての当面の問題で無い。
当面の問題は如何にして解脱するか、如何にして生死を離れ、如何にして此の矛盾だらけの、罪と悩みに満てる人間世界を超えて彼岸の世界へ行くことが出来るであろうか。
さういう風にただ一途に出世の善を求められたのであります」(仏座第20号13〜4頁)

といっている。

また「真俗二諦に就て」においても、

「浄土は出世の道なるが故に、世間道を否定せねば生るることが出来ぬ。
大願清浄の報土へは自力の心行が至ることは出来ぬというのは、所詮世間心では生れられぬといふことではないであろうか。
自力の行といふは、勿論人天の善のみではないであろう。
併し自力の心といふは世間の心と見てよいと思ふ。
たとへ出世を願ひ、その願に従って行じても、畢竟じて世間の心を離るることの出来ぬ相こそ、自力無功といはるる点である。
されば純なる出世の心は唯だ法蔵菩薩の願心である。
如来清浄の本願である。
それ故に如何なる道徳の人であっても、如来の前に跪いては、罪悪深重と信知して、ただ合掌念仏せざるを得ぬのである。
かくして、出世の道を願ひ自力の心を否定せられし宗祖には、特に俗諦の説のないのは寧しろ当然でないであろうか」(真俗二諦観集43頁)

と明かしている。

親鸞には俗諦の教説、仁義、道徳を守れというような教誡はなかった。

親鸞にとっては、そういう世間における人間計度の善などは、すべて限りあるものであって、そのことは当面の課題ではなかった。

むしろそういう世間を超えて、いかにして出世、真実の道を求めてゆくか、いかにして生死を出離し、本願に乗托することができるか、ということのみが問題であったのである。

かくして、親鸞の立場に立つならば、この人生をいかに世渡りするかという如き俗諦の教説は、まったく成立するはずもなかったというわけである。

 しかしながら、このように親鸞がいちずに世間を超えて出世間、真実を求めたということは、またそれだけ、この世間の生き方に苦悩したということでもあって、そのような親鸞の思想を領解しようとするならば、また必然に、、この世間の道、俗諦というものを問題にせざるをえなくなる。

そのような意味からすると、『無量寿経』の三毒、五悪段が注目されるのであって、いま真宗において語られるべき俗諦、世間の道の根拠は、まさしくここにあるといいうるとするのである。

そこでそういう意味において真俗二諦が考えられてくるが、ここでいう真諦とは、「念仏成仏、往生浄土の道」(仏座第20号2頁)「出世間善」(同九頁)「最高の当為価値」「涅槃の道」(真俗二諦観集41頁)などと理解し、その俗諦については、「王法仁義、王法を守り仁義を守りて行くといふ所の道」(仏座第20号2頁)「世間善」(同九頁)「生活価値」「人天の楽を求るもの」(真俗二諦観集41頁)と規定している。

親鸞の基本的立場に立つかぎり、俗諦の教説、倫理道徳を守れという如き教誡はない、といいながらも、ここではまた真宗行者の生き方として、俗諦としての王法仁義を守る道を認めるわけであるが、いったい何故にそういいうるのか。

その主張はまことに唐突であって、そこには何等の必然的な論理は明確にされてはいない。

金子における真俗二諦説の疑問点である。

 そして金子はその両者の関係については、

「無量寿経では真諦から俗諦へ来るのであるとも思はれるし、俗諦から真諦へ来るのであるとも思はれる」(仏座第20号24頁)

といって、真諦から俗諦への方向と、俗諦から真諦への方向の、二つの方向が考えられるとする。

その俗諦から真諦への方向については、

「世間善を願ふこと多ければ多い程念仏は豊かである。(中略)世間善に対する願ひが多い、願ひが多いから随って世間善に対して悶えが多い、悶えが多いだけ念仏の上に甦って来る。
さういふ点に於いて、世間善などはどうでもよい、かういう人でも、念仏は称へられるかも知れませぬ。
恐らく称へられるでありましょう。
けれども、世間善といふ事を願はない、世間の人情とか道徳とかいふ事に行き悩まぬ人の念仏といふものは、内容の貧しい非常に貧弱な念仏に過ぎない。
世間善が多ければ多い程、出世間に於ける念仏といふものは内容の豊富なものが現れて来る。
かういふ事を吾々は思ふ事が出来るのであります。
だからして人間が長生して世間善に色々と行き悩む。
悩めば悩む程、それだけ彼の世の念仏に否定せられて、それが向き直って彼の世の徳となって行くのであります。
ここに世間善から出世間善へと転入する所の道が確かに一つある」(仏座第20号26〜7頁)

と明かし、また、

「俗諦から真諦への道は確かにある。けれどもそれは或る一つの飛躍があるのであって、決して必然的に行くので無いのである」(仏座第20号32頁)

といい、さらには、

「世間道は出世道へ導く機縁となることはあるけれども、それは必然なものではない。

随って既に出世の法に入れる人にも真諦は真諦、俗諦は俗諦として無交渉の人もあるであろう。

併しその無交渉は決して至当なものではない。

既に俗諦が真諦への機縁になるのであるから、俗諦の善を求むることが多ければ多い程、真諦の法味は増長するのである。

それ故に真俗はその意味に於ては二諦であるが、真宗の教徒にはそれが相依相資して唯一の生活をなさねばならぬ。

尚ほ俗諦から真諦への道は転回的であって必然的でないといふことから、道徳は人である限り行ふべきものであるが、宗教は全くその人の自由であるといふことが領解せらるる。

この意味に於て自由といふことは、特に選ばれたる人の幸恵である」(真俗二諦観集46〜7頁)と語っているのである。

すなわち、世間の善、俗諦を願うことが多いければ多いほど、また出世間の善、真諦は豊富となり、その法味は増長してくる。

俗諦から真諦への道が展けてくる。

しかしながら、それは決して必然的ではなく、そこにはひとつの飛躍があって、転回的であるというのである。

そしてまた、真諦から俗諦への方向については、

「出世間から世間へ来るといふ事、これもあり相な事である。
世間から出世間への転入に於ける感じは、どういうものが出て来るかといふと、そこへ現れて来るのは世間の軽視である。
真俗二諦が問題とせられるのもここから来て居るに違ひない。
本当に念仏往生の道が解って来ると世間を軽んずる。
富貴だの権威だの仁義だの道徳だのとくだらないことを云って居るといふ風に、世間に対する所の軽視が現れて来る。
私は此の世間軽視は善いものだといひませんが、世間の軽視が無い位ならば一体出世間道といふものの価値がどこにあるか、ともいひたいのであります」(仏座第20号27頁)

「併しその軽視は固執さるべきではない、一方に軽視の感があっても一方にはまだ世間価値を無視することは出来ぬものがある」(仏座第20号29頁)

「何と云っても大事なのは真諦、何といっても吾々の考へなければならぬのは念仏往生の道であるに違ひないのだ、併し乍ら吾々は世間善も守らなければならぬものであると言ひ度い。
即ち、俗諦を面倒にいはずに、真諦によって与へられた余裕をもっと吾々はやはり世間を愛して行かうではないかといふやうな気分で行き度いのであります。
一度真諦といふ天地へ入った者には余裕があるから、其の余裕が一つの力となって働くのではないか、かうなりますれば、やはり真諦から俗諦へといふ道もそこに認められるやうに思ふのであります」(仏座第20号30頁)

と語っている。

そして、

「真諦から俗諦の道もやはりあるのだけれども、必ずしもそれは必然的ではない」(仏座第20号33頁)

といい、また、

「それは無作自然なる念仏の力が或る一つの余裕となり所依となる。
丁度吾々が歩く時に大地が所依となる。
大地がなければ吾々は歩く事は出来ない。
吾々は大地によって歩くのである。
それと同じやうに、吾々は念仏成仏といふ真諦の信念によって或る余裕を与へられる。
其の余裕が吾々をして、サアかうしょうぢゃ無いか、自分はかうして行きたいものであるといふ風な有作人為的の規約が出て来る。
其の規約といふものの上に俗諦といふものの意味があるので無いであろうか。
さうするならば、真諦の信念を獲たものは必ずしも俗諦を守るとは決まって居らない。
無作自然の徳は出て来るでありませうが、有作人為なるものは規約しなければ――個人的に規約するか、団体として規約するかしなければ俗諦は出て来ないのであります」(仏座第20号35〜6頁)

と明かしている。

そしてまた、

「真諦から俗諦への道はある。
併し真諦を得るものは必ずしも俗諦を作意するものではない。
私はここでは俗諦が特に自然に行はるるものではなくして、作意して行はるるものであらねばならぬことを言はふとするものである。
真諦の獲得がその人の人格を転換し、自然に道徳に順ふようにならしむるに違ひない。
それは信心の利益であり、本願の力用である。
この意味のものならば、宗祖の説に於いて至るところに見出さるることであるは言を侯たぬ。
併しそれを以って直に俗諦をいふことは出来ない。
何故なれば信心の功徳は自然無作であるが、俗諦の道徳は人為有作であるべきであるから。
(中略)真諦は俗諦の所依とはなるけれども、俗諦を流出するものではない。
それ故に真諦から俗諦への道も亦転回的であって、必然的でないといはねばならぬ」(真俗二諦観集47〜8頁)

と示しているのである。

すなわち、真諦、信心の立場に立つかぎり、その必然として、富貴や道徳などの世間の価値に対する軽視が生まれてくるが、しかしまた、この世間に生きてゆくかぎり、他方ではこの世間における価値を無視することはできないわけである。

ここにその真諦、信心の立場を所依として、有作人為的な規約が出てくることとなるのであって、俗諦とはここに成立してくるというのである。

その意味において、真諦から俗諦への道は、決して必然的、流出的ではなく、人為的に作意してこそ生まれてくるものなのである。

 かくして、金子においては、俗諦から真諦への道においても、また真諦から俗諦への道においても、ともに決して必然的ではなくて転回的であって、「真と俗、世間と出世間といふものは、どこまでも二つであるけれども、そこにいふにいはれない交渉がある」(仏座第20号37頁)というわけである。

それが「転回的」であるといわれ、また「いふにいはれない交渉」があると明かされる意味が、いまひとつ充分に理解しがたい点が残るものの、そのような領解は、ついには真俗二諦を肯定し、その相資相依論に堕するものであろう。

しかしながら、ともあれ、この金子における真俗二諦説の特色は、親鸞においては基本的には俗諦の思想はなく、ひとえに真諦の一諦のみを教示しているという理解があることであって、このことは真宗の真俗二諦論におけるきわだった指摘として、充分に注目すべきことであると思われる。

(未完)



(1)この論考は『龍谷大学論集』第四一八号所収の「真宗における真俗二諦論の研究(その一)」に続くものである。
(2)拙稿「真宗における真俗二諦論の研究(その一)」(龍谷大学論集第四一八号)参照。
(3)性海の真俗二諦論については「幕末・維新期の国家と宗教―とくに真俗二諦の成立過程―」福間光超(『近世仏教』第四巻第二号)においても論究されている。
(4)『本願寺史』第二巻七一二頁。
(5)学林に三年懸席の者にして受験が許される布教使の試験のこと。
(6)福田義導『宗義別論八題講究』二十九丁。
(7)『前掲書』三〇丁。
(8)『前掲蕃』三一丁。
(9)存覚『破邪顕正抄』巻中
(10)福田義導『真宗調査四題講義』八丁。
(11)『前掲書』一一丁。
(12)龍谷大学図書館所蔵・その全文は毛利悠氏によって『真宗研究会紀要』第八号に紹介されている。
(13)ここでいう皇国の三法とは、仏教、神道、儒教の三教を意味し、またその三定とは、明治五年四月、教部省より発せられたところの、三条教則なる、一、敬神愛国の旨を体すべき事、一、天理人道を明にすべき事、一、皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべき事、という三則を指すものであろうか。
(14)藤田成善集録『伊勢法語』(染香文庫)四五〜六頁。