龍谷大学論集・第424号 抜刷・昭和59年5月26日発行 

覚如における信の思想 ――真宗教学史における信解釈の問題―― 信楽峻麿

一、はじめに
二、覚如における行信理解
三、覚如における信解釈の特性
四、覚如における真宗信心の屈折

一、はじめに

 親鸞によって開顕された浄土真宗における信心とは、いっぱんに理解される如き二元的対象的な信ではない。

それは基本的には、仏教において語られる信の性格を継承するものであって、本質的には、まさしく絶対主体的な信知体験というべきである。

親鸞はその信心について、「智慧の信心」(唯信鈔文意)といい、また「信心の智慧」(正像末和讃)ともいっている。

そしてその「信心の智慧」の語には、それに左訓して、

「みたのちかひはちえにてましますゆへに、しんするこころのいてくるは、ちえのおこるとしるへし」(草稿本正像末和讃・親鸞聖人全集和讃篇145頁)

と明かし、またそのほか、『弥陀如来名号徳』においては、

「念仏を信ずるは、すなわちすでに智慧をえて、仏になるべきみとなる」

といい、また親鸞の消息に添え書きした蓮位の文には、

「信心といふは智也。この智は他力の光明に摂取せられまいらせぬるゆへにうるところの智也」(末燈鈔)とも語っている(1)。

信心とは智慧を意味して、信心をうるとは、智慧をうることであり、智慧がおこることであるというのである。

ここでいう智慧とは、仏道が目指すところの、究極の目標としての智慧であることはいうまでもない。

しかしながら、親鸞は信心を智慧であるといいながらも、その信心の人を指して直ちに証悟した人とはいわない。

親鸞にとっては、たとえいかに信心を深く生きるとも、人間は本来に煩悩具足の凡夫であって、この生命のかぎり臨終に至るまでは、生死迷妄を脱離することはできないというのである。

その点、親鸞が信心を領解するについて、どこまでも煩悩具足、罪業深重の凡夫と語りながら、しかも同時に、その凡夫の身において成立する信心を指して、智慧と明かしていることは充分に注目すべきである。

親鸞においては、信心とは智慧をうることであったが、それは煩悩具足、罪業深重のこの現実存在に即して成り立つことであり、その信心の智慧においてこそ、よく自己の煩悩具足、罪業深重の実相が信知されてくることでもあったのである。

かくして親鸞における信心とは、すでに仏道における究極の目標としての智慧をうることであったが、また同時に、その信心において、それとはまったく逆なる自己の生死迷妄性に深く開眼してゆくことでもあって、それは地獄必堕の信知に相即し、それと逆対応的に成立するところの、智慧の獲得を意味するものであったのである。

 親鸞はまたこの信心について、きわめてしばしば「真心」(信文類)と明かしている。

親鸞においては、信心とは、まさしく真実との出会い、その現成体験であったのである。

親鸞はそのことについて、

   「信心とは即ち是れ、真なり、実なり、誡なり、満なり」(信文類)

と明かし、また、

「言護念増上縁者といふは、まことの心をえたる人を、このよにてつねにまもりたまふとまふすことば也」(尊号真像銘文)

「信はうたがひなきこころなり、すなわちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるこころなり」(唯信鈔文意)

などとも語っているのである。

信心とは「まことの心」のことであり、真実と出会い、真実が現成してくることであって、虚仮をはなれた心のことであるというのである。

ここでいう真実とは、親鸞がその『信文類』に『涅槃経』の文を引いて、

  「真実と言うは即ち是れ如来なり。如来は即ち是れ真実なり」

と明かす如く、仏道の究竟としての如来、法性を意味するものであろう。

その点、親鸞においては、信心が真心であるということは、またそのまま、信心が如来、法性でもあるということであった。

たしかに親鸞は、

  「大信心は仏性なり、仏性すなわち如来なり」(浄土和讃)

と示し、また、

「この信心すなはち仏性なり、この仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり」(唯信鈔文意)

とも語っているわけである。

しかしながら、親鸞は信心を如来と明かしながらも、その信心の人を指して、直ちに如来、仏とはいわなかった。

親鸞にとっては、信心をうるとは、すでに上に指摘した如くに、ひとえに自己の煩悩性、罪業性にめざめてゆくことでもあったのである。

その点、親鸞が信心を領解するについて、それが真心として、真実と出会い、真実が現成することであると語りながら、しかも同時に、その信心とは、現実の自己と世界との不実性、虚妄性について、深く開眼してゆくことでもあって、その真実とは、まさしく無にして有なるものであったのである。

親鸞が信心を明かすについて、「本願力廻向之信心」(信文類)といい、「如来よりたまはりたる信心」(歎異抄)と語る所以でもある。

このような構造は、親鸞における信心の性格として充分に注目すべきである。

それは上に見たところの、親鸞における信心とは、究極的な智慧をうることでありながら、しかもまたそれに即して、それとは逆対応的に、自己自身の地獄必堕の実相について信知してゆくことでもあったことに重層するものである。

かくして、親鸞における信心とは、基本的には、智慧の信心としての信知体験として、究極的な真理、真実にめざめるとともに、それに即して、自己の実相としての煩悩罪業にめざめてゆくことであり、そしてまた、真心としての真実の現成体験として、究竟的な真実に出会い、それを獲得するとともに、それに即して、この現実の自己と世界の虚妄に出会い、それに開眼してゆくことであって、それはまったく非日常的、絶対主体的な出世体験であったといいうるのである(2)。

その点、親鸞における信心とは、本質的には、旧き自己に死して新しき自己に生まれるという、まったく新たなる宗教的主体を確立してゆくということでもあって、それは必然に、脱皮と成長という構造を含むところの、鋭い人間変革の論理を宿すものであったのである。

そしてまた、その故に、この親鸞における信心とは、基本的には、個人的、内的なものでありながら、しかも同時に、すぐれて社会的、外的な意味をもつものであり、たくましい社会変革に連動する潜在的な動力を秘めるものでもあったわけである。

 しかしながら、このような親鸞によって開顕された真宗の信心は、その後さまざまな理解や解釈が加えられて屈折してゆくこととなった。

ことに近世における徳川幕藩体制下の真宗教学においては、おしなべていえば、その封建体制に順応、追随する解釈が行なわれて、真宗信心とは、もっぱら二元的対象的な信心として、究極的価値に対する、いちずなる随順、領納の心的態度として捉えられてゆき、また近代における天皇制国家体制下の真宗教学に至ると、それを承けていわゆる真俗二諦論的に理解され、現実の世俗価値との厳しい切り結びを欠落したところの、国家権力と妥協し、それに癒着した観念的体制的な解釈がすすめられたのである。

そしてやがて生まれた戦時教学においては、その必然として、真宗信心はそのまま天皇崇拝や神祇信仰に重ねて理解され、ついにはその真宗信心の名において、日本帝国主義の侵略戦争を讃美し、それに加担してゆくこととなったのである(3)。

真宗における信心理解の屈折、変質というほかはない。

だがこのような真宗信心の理解は、ただに近世、近代において始まったわけではない。

すでに親鸞の没後まもなくして、そのような傾向が見られるのである。

以下、その問題をめぐって、ことに覚如における信心理解について若干の考察を試みることとする。


二、覚如における行信理解

 覚如(1270〜1351)は、親鸞の曽孫として、その没後八年にして誕生した。

幼なくして隆寛の流れを汲む慈信房澄海に学び、その後、宰相法印宗澄について天台教学を、三位法印行寛について法相教学を、さらには自性房了然について三論教学を学んでいる。

また親鸞の思想は如信および唯円に面接して相承した。

また覚如は東山安養寺の阿日房彰空に従って浄土教義を修学したが、この彰空は證空を祖とする西山浄土宗に属しており、後に見る如く、覚如の真宗理解に西山教学が影響しているのは、ひとえにこのことに基因するものと思われる。

覚如はまた慈光寺勝縁より幸西の一念義を学んだというが、父の覚恵も一念義系の礼讃念仏に傾倒したところであって、覚如の思想に一念義系の色彩が濃い理由もうなずかれるところである(4)。

覚如の時代、十三世紀から十四世紀にかけての頃の歴史的状況は、古代荘園体制が除々に崩壊し、それとともに、新しく名主層が抬頭して武士化してゆくという、荘園体制と名主層との対立抗争の中で、全体的には在地領主、武士の社会的政治的支配体制が次第に確立されてゆき、また他方では貴族、寺社などの荘園領主の反動的領主化がいっそう進展してきたところの、封建体制確立途上の保守反動的な時期であった。

このような歴史的状況の中で、覚如は親鸞の大谷廟堂の留守職に就任した後、この廟堂を本寺とする新しい中央集権的な教団の組織化を意図したわけである。

また他方、教義的にも、親鸞の門弟らによって領解伝承されてきた法門に対して、新しく三代伝持という血の論理を導入することにより、もっぱら大谷廟堂、本願寺中心主義を標榜して、余流の教義理解を批判し統制してゆき、もって自己を頂点とする本願寺教団とその教団教学の形成を目指したのである。

もともと親鸞によって明かされた真宗教義は、本質的には鋭い変革の原理を宿しているものであったが、この中世の封建支配体制が確立されてゆく中にあって、新しく中央集権的な教団の形成を意図する覚如にとっては、そのことは大きな負的要素であったにちがいない。

かくしてそこでは必然的に、そのような変革の論理を薄めながら、当時の社会的傾向に順応し、その政治体制に妥協せざるをえず、またそういう時代思潮に対応する新しい論理を用意しなければならなかったのである(5)。

その点、覚如における真宗理解には、親鸞の原意趣に比較すると、ざまざまな屈折が生じていることがうかがわれるのである。

以下そのことをめぐって、ことにその行信思想について見ることとする。

 覚如における行信思想について見るに、その行の理解においては、『教行信證大意』に、

「真実の行といふは、さきの教にあかすところの浄土の行なり。これすなわち南無阿弥陀仏なり」

と明かす如く、行とは『無量寿経』に説くところの南無阿弥陀仏なる名号であると規定している。

親鸞においては、行とは「無碍光如来の名を称するなり」(行文類)という如く、明らかに称名行として捉えられていたものが、覚如においては、仏の名号そのものであると理解されているわけである。

そしてその名号とは、

「名号はもろもろの善法を摂しもろもろの徳本を具せり。衆行の根本、万善の総体なり」(教行信證大意)

「かの仏の因位の万行果地の万徳、ことごとくに名号のなかに摂在して十方衆生の往生の行体となれば、阿弥陀仏即是其行と釈したまへり」(執持鈔)

と語る如く、一切の善法徳本、万行万徳を摂具するものであって、この名号がよく衆生往生の「行体」となるというのである。

すなわち、この名号こそがまさしく「行」であって、それが「安養往生の業因」(執持鈔)であり、「正定業」(執持鈔)であるというわけである。

そしてまた信に対する理解としては、『教行信證大意』に、

「真実の信といふは、かみにあぐるところの南無阿弥陀仏の妙行を、真実報土の真因なりと信ずる真実の心なり」

と明かす如く、その名号を対象とし、それを往生の真因と信ずる心のことであるとする。

行と信とは明確に能所二元的に区分されて、行は所信であり、信は能信であるという理解である。

そしてその信ずる心の内容については、別に詳細に解釈するところはないが、この信を表象するのに、「帰す」という語がきわめて数多く使用されていることは、充分に注意されるべきであろう。

すなわち、「他力に帰する」(執持鈔)「仏智に帰する」(執持鈔)「仏語に帰属する」(改邪鈔)「仏智に帰属する」(改邪鈔)「本願に帰托する」(口伝鈔)などと明かされるものがそれであり、さらにはまた、それに類するものとして「所帰の仏智」(執持鈔)「能帰の心」(執持鈔)「一念帰命」(願願鈔)「帰命の一念」(執持鈔)「帰命の一心」(口伝鈔)などという表現も見ることができる。

ひとえにその名号を対象として、その他力、仏智、本願に向って帰すること、帰属し、帰托し、帰命することが、真宗信心の心相であるというのである。

そして覚如は、この帰命、信心において、往生は決定し、即得往生住不退転を成ずることとなるというのである。

このように、信心を「帰す」という語をもって表象する用例は、すでにわずかには親鸞にも見られるところであり、また浄土教理史の伝統にも溯ることが可能である。

しかしながら、これほどまでに頻繁に使用されるについては、その思想的傾向が推察されてくるわけであるが、このように信を「帰す」(かえる)と理解することは、ことに西山教学に濃厚であって、またその系統に属する聖典といわれる(6)『安心決定鈔』に多く見られるものである。

上に見た如く、覚如は若き日に、阿日房彰空を師として西山教学を修めたことがあり、またその『安心決定鈔』を所持していたという記録もあるところより(7)、それらからの影響によるものと推察されてくるのである。

かくして、覚如においては、この行と信の関係は、明らかに二元論的に能所主客の関係において捉えられており、その行とは、南無阿弥陀仏なる名号として所信であり、信とは、かかる行に対する帰属、帰托の心としての能信と理解されていたわけである。

 そしてまた覚如は、その信心の理解において、ことにその成立については、善知識を媒介とすることの重要性を強調しているのであるが、それは覚如の信理解の特色として、充分に注目すべきことであろう。

すなわち、

「願力不思議の仏智をさづくる善知識の実語を領解せずんば往生不可なり」(改邪鈔)

「知識伝持の仏語に帰属するをこそ自力をすてて他力に帰するともなづけ、また即得往生ともならひはんべれ」(改邪鈔)

「平生に善知識のおしへをうけて信心開発するきざみ正定聚のくらゐに住す」(口伝鈔)

「しかればその名号をきくといふは善知識に開悟せらるる時分なり」(願願鈔)

「聞其名号といふ聞は、善知識にあふて如来の他力をもて往生治定する道理をききさだむる聞なり。(中略)経釈すでに聞をもて詮要とせられたり。よくきくところにて往生の心行獲得する条顕然たり」(最要鈔)

などと明かすものがそれである。

聞其名号といい、仏智を領受するといい、本願に帰托するというも、すべて善知識の教導により、それに開悟され、その実語を領解し、その伝持する仏語に帰属することにほかならぬというのである。

覚如においては、この善知識に基ずき、その教導によってこそ、よく信心が確立され、往生が決定するというわけである。

そしてまた覚如は、更にこの善知識とは「如来の代官」(改邪鈔)であり、「生身の如来にもあひかはらず」(改邪鈔)とまでいって、その恩徳に報謝せよと語るのである。

覚如がこのように善知識の意義を強調するについては、ひとつには、

「祖師の御門葉と号するの輩の中、師伝に非らざるの今案自義を構え、権化の清流を謬黷して恣に当教と称し、自ら失し他を誤らす」(改邪鈔)

という如く、自己に対立する異流の真宗理解とその化導者をきびしく批判し、もっぱら三代伝持の血脈を標榜して、自己の立場の正統なることを主張するという意味をもつものであったわけであろう。

そしてまた、そのような主張は、

「祖師の御本所をば蔑如し、自建立のわたくしの在所をば本所と自称するほどの冥加を存ぜず、利益をおもはざるやから、大■〔忖±僑〕慢の妄情をもては、まことにいかでか仏智無上の他力を受持せんや」(改邪鈔)

と語って、私に本所と自称することを許さず、ひとえに本願寺を本寺とする中央集権的な教団統一を意図するところからすれば、「実語をつたへて口授し、仏智をあらはして決得せしむる」(改邪鈔)ところの、「如来の代官」「生身の如来にもあひかはら」ざる善知識とは、帰するところは、覚如自身とその流れを汲むもの以外にはありえないこととなるであろう。

もって覚如における善知識重視の意趣がよくよくうかがわれてくるのである。

真宗における行道、聞法の実践において、「よき人」としての善知識のもつ意味は決して軽くはないとしても、それをこのような教団統制的意図のもとに、「如来の代官」といい、「生身の如来にもあひかはらず」とまでいって、如来と衆生の間における仲介者として位置づけるについては、親鸞にはまったく見られない発想であって、覚如独自の真宗理解、ないしは信心理解として、充分に留意すべき点であろう。

 かくして覚如における浄土の行道とは、往生の業因としての名号、さらには仏智、本願を対象とし、善知識に教導され、開悟されて、ひとえにそれに帰属し、帰托し、信心してゆくという構造をもち、この帰属、信心のところにこそ、往生は決得するというものであった。

したがってそこでは、親鸞によって明らかにされた主体的な専修思想、選びの論理というものは、充分に継承されてはいない。

すなわち、

「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞ、まことにておはします」(歎異抄)

と語られる如き、この世俗の現象、価値のすべてを虚妄と見すえて、それを徹底して相対化し、それを選捨しつつ、ただいちずにこそ、本願念仏をのみ究極的価値、絶対真実として選取し、そこに人生の畢竟依を見出してゆくという専修、唯信なる、行道の基本的構造としての主体的な選びの論理は、大きく欠落し、見失われているのである(8)。

かくして覚如においては、親鸞によって「念仏成仏これ真宗」(浄土和讃)と示され、なおまた「浄土真宗のならひには念仏往生とまふすなり」(一念多念文意)などと明かされた。

念仏の行道は否定されているのである。

すなわち、覚如は、

「名号をとなふる功をもて往益を成ずべからず」(願願鈔)

「正定業たる称名念仏をもて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なをもて凡夫自力のくはだてなれば、報土往生かなふべからず」(改邪鈔)

という如くに、往生の行業としての称名念仏は、全面的に否定し、排除するのである。

これらの文は、自力念仏を否定した文であって、他力念仏まで排除するものではないという見解がだされるかも知れないが、覚如においては、往生の行業としての称名念仏は、基本的に否定、排除されているのである。

そのことは、一念多念の問題について、明瞭に一念義系の立場に立って、多念の念仏を否定していることによっても明らかである。

親鸞はこの一念多念の問題については、『一念多念文意』を著わして、

「一念をひがごととおもふまじき事」

「多念をひがごととおもふまじき事」

「これにて一念多念のあらそひあるまじきことは、おしはからはせたまふべし。浄土真宗のならひには念仏往生とまふすなり。またく一念往生多念往生とまふすことなし」

と明かし、その何れかの一方に偏して一多の争いをしてはならないと厳しく教誡し、浄土真宗の行道とは、まさしく念仏往生の道であると明示しているのである。

またその消息においても、

「一念こそよけれ多念こそよけれなんどまふすことも、ゆめゆめあるべからずさふらふ。(中略)念仏往生の御ちかひなれば、一念十念も往生はひがごとにあらずとおぼしめすべきなり」(御消息集)

などと語って、念仏往生とは本願に誓われるところの往生の行道であって、一念多念の何れもがひがごとでないことを明かしているわけである。

しかしながら、覚如はその、『口伝鈔』において、

「一念も多念も、ともに往生のための正因たるやうこころえみだす条、すこぶる経釈に違せるもの歟。
さればいくたびも先達よりうけたまはりつたへしがごとくに、他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて、そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらむほどは念仏すべし。
これすなわち上盡一形の釈にかなへり。
しかるに世の人つねにおもへらく、上盡一形の多念も宗の本意とおもひて、それにかなはざらん機のすてがてらの一念とこころうる歟、これすでに弥陀の本願に違し、釈尊の言説にそむけり。
そのゆへは如来の大悲短命の根機を本としたまへり、もし多念をもて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもて淵源とす」

といって、一念多念を同列に捉えて、両者ともに往生の行道であると理解することは誤りであるとして、明らかに多念を否定した一念義の立場、念仏を廃して信心を因法とする義を主張しているのである。

このような一念義の主張は、覚如の著書にしばしば見られるところであって、覚如における行道においては、念仏往生の道は根本的に否定されているのである。

 そして覚如は、この一念、信心による往生決得の後の多念の称名念仏は、すべて仏恩報謝のつとめであるというのである。

浄土教理史上の多くの先達の教示における、また親鸞における称名念仏をすすめる文言は、すべて信心成立以後の仏恩報謝の行為であると解釈するわけである。

「一念無上の仏智をもて凡夫往生の極促とし、一形憶念の名願をもて、仏恩報盡の経営とすべし」(口伝鈔)

「信心歓喜乃至一念のとき、即得往生の義治定ののちの称名は仏恩報謝のためなり」(最要鈔)

「往生すでにさだまりぬとしりてのちは、御名をとなへて如来の恩徳をむくひたてまつるべしとなり」(本願鈔)

などと語るものがそれである、このように称名念仏をもって報恩の経営であるとする理解は、すでにわずかには浄土教理史上にも溯りうるところであり、また親鸞においても微量にはうかがわれる思想である(9)。

しかしながら、親鸞においては、そのことが直ちに真宗教義の綱格をなすほどの重要な性格をもつものではなかった。

このことが真宗教義の理解において、ことに強調されるようになったのは、むしろ親鸞没後からのことであるといわざるをえない。

すなわち、『歎異抄』の第十四条には、念仏滅罪の思想を批判して、

「一生のあいだまふすところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり」

と示している。

この『歎異抄』においては、はじめの師訓として記録される文の中には、称名念仏をもって報恩行と規定するところはなく、そこではすべて、念仏は往生の行業として明かされているのである。

しかしながら、ここでは明らかに念仏行を仏恩報謝の意味において理解するわけである。

これはすでに指摘される如く、多分に、筆者唯円自身の独自な念仏領解を語ったものであろう(10)。

そしてまた、このような称名報恩の思想は、西山浄土教学においても語られるところである。

証空の教学によれば、他力念仏の主張において、浄土往生の正因としての仏体に帰命する一念に往生は決定し、それが更に相続の称名念仏に展開するところ、その念仏は、定散諸善の一切の諸行の実践をも摂するところの念仏となり、またそれは、仏恩報謝の行業の意味をもつことともなると明かしているのである(11)。

また幸西の一念義においても、称名念仏を報恩行と理解する思想があったとうかがわれるようである。

幸西については、残された著作が少なく、今日において見られる文献からは、明確に念仏報恩の思想を指摘することはできないが、『西方指南抄』の「和尚の御釈によるに」という言葉にはじまる文に、「仏恩を報ぜむため」(巻中末)の念仏を語っているが、これは幸西か、またはその系統に属するものの法語であろうと考えられている(12)。

また『漢語燈録』にも、一念義の念仏思想を示すについて、「本願は是れ一念也、二念已後は仏恩を謝せんが為なり」(巻10)と語っているが(13)、これも幸西の思想について明かしたものであると指摘されている(14)。

一念義の立場においては、その教理解釈の必然として、信心成立以後の念仏は、すべて仏恩報謝の意味をもつものであると理解したことがうかがわれるのであるが、その点、一念義を主張した幸西の教学においては、当然にこのような念仏報恩の思想があったであろうことが充分に推察できるのである。

かくして、すでに上に見た如く、覚如は西山教学を修習するとともに、慈光寺勝縁より幸西の一念義をも承けたといい、ことに覚如には、この勝縁を通して、いまは未伝の幸西の著書である『凡頓一乗』『略観経義』『略料簡』『措心偈』『持玄鈔』などを書写したという記録がある(15)。

また父の覚恵も、多年にわたり一念義系の礼讃念仏を修習していたというが、これらのことからすると、覚如の真宗理解には、西山教学とともに、幸西の一念義の思想が濃厚に影響しているであろうことが考えられてくるのである。

覚如がこのように、多念義を否定して一念義の立場に立ったということは、その『口伝鈔』によれば、「いくたびも先達よりうけたまはりつたへ」たことだといっているが、ここでいう先達とは誰を指すものであろうか。

『口伝鈔』はその冒頭の文、および末尾の奥書によると、親鸞が如信に面授したものを記録したというが、とすると、それは如信を指すとも考えられる。

ただし、この『口伝鈔』は、内容的には『歎異抄』や『恵信尼消息』などに共通する部分も見られるのである。

ことに覚如は、唯円にも会って法門を伝持されたというところからすれば(16)、この唯円からの口伝もありえたであろうと思われる。

唯円の教学については明確には知ることができないが、その『歎異抄』に称名報恩の思想が見られることは、すでに上に指摘したところである。

その点、称名報恩の思想が、この唯円を継承したものであることもうかがわれてくるところである。

しかしながら、覚如がこのように多念の称名念仏をもって報恩の経営であると強調したのは、基本的には、上に見た如くに、ことに幸西の一念義、および西山教学の影響によるところが多かったであろうと推察されてくるのである。

ともあれ、このような一念業成の立場、称名報恩の主張は、帰結するところ、覚如自身の真宗領解を表白したものというべきである。

 そしてまた覚如が、このように称名念仏をもって仏恩報謝の経営であると理解したことは、直ちに親鸞の報恩思想に重なるものとはいいえないことも注意されるべきである。

親鸞における仏恩報謝の思想とは、

「他力の信をえんひとは、仏恩報ぜんためにとて、如来二種の廻向を、十方にひとしくひろむべし」(正像末和讃)

「仏慧功徳をほめしめて、十方の有縁にきかしめん、信心すでにえんひとは、つねに仏恩報ずべし」(浄土和讃)

「仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれてまふして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべし」(御消息集)

などと明かす如く、その報恩とは、ひとえに自信に対する教人信として、本願大悲の伝達、衆生救済の実践までの社会的な拡がりをもっていたものである。

にもかかわらず、覚如においては、その報恩思想が、たんなる仏に対する仏名称唱の行業のみに限定されているわけである。

そしてまた、たとえその報恩を称名に限定して理解するとしても、

親鸞は「唯能く常に如来の号を称して大悲弘誓の恩を報ずべし」(行文類)

と明かして、つねに称名念仏して仏恩を思念し、それに報いて生きよというのである。

それに対して、覚如は称名が報恩行であると規定するのである。

しかしながら、称名しつつ仏恩に報いて生きよということと、称名が報恩行であるということとは、直ちに同じことではない。

覚如においては、仏に救済されたもののなすべき報恩の行業とは、ひとえに称名念仏であるというのである。

このことは明らかに、真宗信心を、中世の封建支配体制確立期における体制原理に順応するものとして、それがもつところの対社会的能動性、その人格変革に連動して起きるところの社会変革の力を自己規制し、それをもっぱら、個人的、内面的な営為として解釈していったことを意味するものであろう。

そしてこのような真宗理解が、やがて後世の真宗教学における真宗者の報恩行の解釈において、

「仏の御恩をおぼしめさんに、(中略)世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべし」

というような、横への拡がりをもった積極的な社会的実践の側面を欠落して、それをもっぱら、仏に対する縦の関係における称名行のみに限定してゆき、もってその後の封建体制社会における、下から上への報謝、献身の封建倫理に対応し、それを補完する役目を果しつづけてきたことは、充分に注目されるべき点であろう。




三、覚如における信解釈の特性

 このような覚如における信解釈、ことにはその行道の理解ならびに称名報恩の思想について、ことに注意すべき点として、親鸞の『本典』についての呼称問題がある、親鸞の主著である『顕浄土真実教行證文類』(本典)は、その必然として略称が用いられたが、門弟の真仏の『経釈文聞書』によると、それは『教行證』と略称されている(17)。

また同じ門弟の顕智も、その書『聞書』および『抄出』において、同じく『教行證』と呼んでいるのである(18)。

このことからすると、その『本典』は、すでに親鸞の在世中から、門下では共通して『教行證』と略称されていたことが知られるのである。

なおまた親鸞の滅後あまり遠くない時期に、門弟性信の流れを汲む横曽根門徒によって編纂されたと思われる『親鸞聖人血脈文集』の後跋の文にも、同じく『教行證』と略称している(19)。

関東の門弟では、ひとしく『教行證』と呼ばれていたことが知られるのである。

しかしながら、覚如に至ると、その要義を明かす書を著わして『教行信證大意』と名づけたことをはじめとして、ほとんど基本的には『教行信證』と略称しているのである。

しかし、存覚においては、その『六要鈔』の奥書をはじめとして、ほとんど『教行證』と略称しているわけである。

その点、覚如と存覚の父子の間に、この略称をめぐって明確な相違があることは興味をひくところである。

また存覚の弟の従覚が著わした『慕帰絵詞』には『教行證』といい(20)、覚如の弟子の乗専の手になる『最須敬重絵詞』にも『教行證』と略称している(21)。

しかしながら、蓮如に至ると、『教行證』という略称、『教行信證』という略称の両者が対等に見られるようになり、その子の実悟においては、すべて一様に『教行信證』と呼称されてくるのである。

かくして『教行信證』という略称は、もと覚如に始まり、その後に曲折を経て、蓮如以後の実悟のころには統一されてくることとなり、それがまさしく定着したのは、近世に至って、真宗教学が興隆するに及んでからのことであろうと思われる。

後世の真宗教学、ことにその行信解釈論からすると、この『本典』を『教行證』と呼称するか、『教行信證』と呼称するかは、その解釈にかかわって重要な分岐点になるところであるが、親鸞の面授の門弟たちは、それをひとしく『教行證』と呼んできたのに対して、覚如はあえて『教行信證』と呼びならわしたわけである。

その理由は、『教行證』と略称する立場が、その必然として、行を衆生の念仏行と捉え、その行の中に信を摂めて理解するのに対して、すでに上に見た如くに、その行と信とを能所に分別し、それを二元的に捉えて、行とは仏の名号を指し、信とはそれを信ずる衆生の心と理解することによるものであることは明瞭である。

そしてこのような覚如の真宗理解、行信理解が、その後に蓮如を経由して本願寺教団に継承されていったわけである。

今日に至る伝統教学が、一般にはそれを『教行信證』と呼称してきたことは、その教学の基本的性格が、親鸞の直弟によって領解された『教行證』の真宗理解ではなく、まさしく覚如によって始められたところの『教行信證』の真宗理解、行信理解を継承するものであることを、よくよく物語るものであろう。

このことは、今日の真宗教学において、ことにその行信理解において、充分に注目され、反省されていい重要な問題であると思量されることである。

 そしてまた、このような覚如における行信思想について、いまひとつ注目されることは、親鸞の「鏡の御影」の賛文の修補改作の問題である。

この御影は専阿弥陀仏が描いた親鸞の肖像画であって、親鸞の七十才ごろの実写であろうといわれている(22)。

ところでこの画像については、現在では、その上部に覚如の筆による「和朝親鸞聖人真影」として、次いで、

「憶念弥陀仏本願、自然即時入必定、唯能常称如来号、応報大悲弘誓恩」

という『正信念仏偈』の四句を書いた色紙型の賛が加えられている。

しかしながら、この賛については、従来の研究および先年の修理調査によると、この画像には、もともとその上下に親鸞自筆の賛文があったことが明らかになった(23)。

その上部には『正信念仏偈』の「本願名号正定業」以下「即横超截五悪趣」に至る二十句が、二句一行づつに書かれ、下部には、

「源空聖人云、当知生死之家以疑為所止、涅槃之城以信為能入文、釈親鸞云、還来生死流転之家、決以疑情為所止、速入寂静無為之城、必以信心為能入文」という文が十行に書かれていたのである(24)。

このことは延慶三年十一月、親鸞没後四十八年にして、覚如がこの御影を修理した際に、このように改作、補筆したと考えられている。

とすれば、覚如は何故にこのように大胆なまでに改作したのであろうか。

それはこの画像が破損していたからであろうとする説(25)、あるいはまた、もともと原画が不備であったために改めて整備したとする説(26)があるが、もしもたんなる破損に対する修理、乃至は不備に対する整備であったならば、あれほどまでに親鸞中心主義を標榜した覚如が、あえて親鸞の自筆を抹消し、またはその親鸞によって選ばれた賛文までも捨て去るはずがなかったのではないか。

ここには明らかに、覚如の改作についての明確な意図があったとしか考えられないところである。

またこの改作については、親鸞主義の立場から、法然の『選択本願念仏集』の文を抹殺する目的があったとする見解もあるが(27)、何よりも、この親鸞による賛文を抹消して、同じ『正信念仏偈』の「憶念弥陀仏本願」以下の四句を、新たに賛したということの意味に注目すべきであろう。

この四句は親鸞における称名報恩の思想をあらわす数少ない文の中の一つである。

覚如はその著作において、すでに見た如く、称名念仏をすべて報恩の行業であると解釈規定するわけであるが、それについては、覚如は自身の著作において、幾度かこの『正信念仏偈』の四句を引用し、それを強い証権としているのである。

その点、このような覚如における鏡の御影の賛文の改作は、真宗の念仏が報恩行の意味をもつものであることを強調するための、覚如自身の作意に基ずくものであったとうかがわれるのである(28)。

覚如は、この修理改作を行なった翌年の五月、この新装の鏡の御影を奉じ、長子の存覚を従えて、越前大町に至り、如導に『本典』を伝授したのである。

そして覚如の伝道教化はここに始まり、本願寺教団建立の運動も、ここを第一歩として推進されてゆくこととなったわけである。

因みに、この原型の上部の賛文である『正信念仏偈』の二十句は、親鸞自身の筆によって、安城の御影の下部の賛文としても書かれているものであり、また『尊号真像銘文』には、その全文を引用して注解されているところである(29)。

その点、親鸞にとっては、この文はことに感銘深く、深重な意味をもつものであったと思考されるのである。

しかしながら、覚如はその文をこのようにして抹消し、改作したのである。

ここにもまた覚如における真宗領解、ことにはその称名念仏に対する理解について、顕著な傾向が指摘されるのである。

 それからいまひとつ、覚如の行信思想に対する特異な理解を示すものに、『御伝鈔』の巻上第六段の信行両座の記伝がある。

すなわち、この第六段によると、法然の門下は三百八十余人もあったが、その法然の真意を継承するものは少なくてわずか五、六名のみであり、親鸞はその一人であったというのである。

ある日、親鸞の発議によって、門下の人々が、まことの信心を決定しているかどうかを判定するために、信不退と行不退の座を分けて、信心をもって往生の道と領解する者は信不退の座に、念仏をもって往生の道と領解する者は行不退の座に着くべきことを提案したところ、三百余人の門下は沈黙躊躇してその意を決しかねていたが、その時、聖覚、信空、能谷直実らは直ちに信不退の座に着くべく申し出た。

親鸞もまた信不退の座に署名した。

やがて法然が発言して、自分もまた信不退の座に着くといったというのである。

この記伝は、法然門下の分派による浄土異流が、それぞれ自己の正義を主張していた当時、本願寺教団が、法然の意趣をまさしく継承する正統であることを顕示するものであり、更にはまた、それは次の第七段の信心一異の諍論の記伝とともに、法然が親鸞の領解を印可、承認したことを物語るものであって、その師資相伝、すなわち、いわゆる法然、親鸞、如信なる三代伝持の血脈、その教系を継承した覚如自身の立場の正統性を主張する証権を意味するものであろう。

しかしながら、かかる記伝の如き歴史的事実が確かに存在したかどうかについては疑問がある。

このような両座を分判することについては、『明義進行集』巻第二にも、

「一念多念の座をわけて、彼此混合せず」(法然上人伝全集・井川定慶編・1008頁)

とあり、当時このようなことが行なわれたとも推察されるが、その内容の詳細についてはまったく不明である。

問題は法然、聖覚らの念仏領解において、このような事態が成立しうるかどうかである。

法然においては、その念仏理解からすれば、到底この記伝の如き、念仏を廃して信心のみを往生の正因とするはずがない。

その主著である『選択本願念仏集』の冒頭には、標宗して、

「南無阿弥陀仏往生の業には念仏を先と為す」(法然全集310)

と明かし、またその結文には、

「正定の業とは即ち是れ仏の名を称するなり。名を称すれば必ず生ずることを得る。仏の本願に依るが故なり」(法然全集347)

と述べ、また、

「一念十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相に申せば信が行をさまたぐる也。念々不捨といへばとて、一念十念を不定におもへば、行が信をさまたぐる也。かるがゆへに信をば一念にむまるととりて、行をば一形はげむべし」(法然全集464)

などとも語っているところである。

そのほか法然においては、念仏往生の思想が一貫して主張されている。

そこでは信と行とを分別し、行を廃して信を立て、それを往生の真因とする如き思想は存在しない(30)。

また聖覚についても、法然の念仏往生の思想を継承するものであって、信行廃立の思想はなく、まして信心のみをもつて往生の正因とする主張は見られない。

その『唯信抄』には、浄土門を明かすについて、

「この門にふたつのすぢわかれたり。ひとつには諸行往生、ふたつには念仏往生なり。(中略)念仏往生といふは、阿弥陀の名号をとなえて往生をねがふなり。これはかの仏の本願に順ずるがゆへに正定の業となづく」

と示して、明らかに念仏往生を主張しており、また、

「一念の義をたててみづから念仏の行をやめつ、まことにこれ魔界たよりをえて末世の衆生をたぶろかすなり。この説ともに得失あり。往生の業一念にたれりといふは、その理まことにしかるべしといふとも、偏数をかさぬるは不信なりといふ、すこぶるそのことばすぎたりとす。(中略)このゆへに一念決定しぬと信じて、しかも一生おこたりなくまふすべきなり。これを正義とすべし」

と明かしている。

そこには念仏を廃して、ひとり信心をもって浄土の生因とするという如き理解はまったく見られない。

聖覚においては、信心と念仏は深く連なって両者は不離なる関係をもつものであったのである(31)。

また親鸞においても、すでに考察を試みた如く、その行道とは念仏の道であるとともに、またそれに即するところの信心の道でもあって、まことの念仏と信心、信と行とは、両者不離一体の関係をもつものであったわけである。

そのことは、『末燈鈔』に、

「信心ありとも名号をとなへざらんは詮なく候。また一向名号をとなふとも信心あさくば往生しがたくさふらふ」

「信の一念、行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。(中略)信と行とふたつときけども、行をひとこえするとききてうたがはねば、行をはなれたる信はなしとききて候。又信はなれたる行なしとおぼしめすべし」

などと明かすことによっても、きわめて明確である。

親鸞は、

「正定の因は唯信心なり」(行文類)

「不思議の仏智を信ずるを報土の因としたまへり、信心の正因うることは、かたきがなかになをかたし」(正像末和讃)

と示しつつも、また同時に、

「安養浄土の往生の正因は念仏を本とす」(尊号真像銘文)

「正定の業因はすなわちこれ仏名をとなふる也」(尊号真像銘文)

と語るのである。

浄土往生の行道を明かすについて、時には信心を正因とするといい、また時には念仏を正因とするともいうのである。

親鸞においては、信心の道と念仏の道とは決して矛盾対立するものではなくて、即一して不離なる関係にあったのである。

その意味において、親鸞においては、この『御伝鈔』の信行両座の分別の如き主張がなされることは決してありうるはずがない。

かくして法然、聖覚、親鸞においては、その教学的視点からすれば、何れも浄土往生の行道において、行と信とを分別、廃立するという如き理解はなく、念仏往生を否定してひとり信心往生のみを正義とするという如き主張は見ることができないのであって、この『御伝鈔』の信行両座の記伝の如き事態が成立するとは、到底考えられないことである。

このことについては、すでに先学によっても指摘されているところであって(33)、それは当時すでに生まれていたたんなる伝説を記録したものか、あるいはまた覚如自身によって意図的に創作されたものではないかと思考されてくるのである。

いずれにしても、ここにもまた、覚如が念仏往生の論理を強力に否定し、排除していることが知られてくるのである。

 以上、覚如における信心理解をめぐって、ことに『本典』の略称の問題、「鏡の御影」の賛文改作の問題、『御伝鈔』信行両座の記伝の問題について考察してきたが、それらは帰するところ、覚如が多くの著作において繰返して主張してきたところの、念仏往生の排除による信心往生の仏道の強調、そしてまた称名念仏とは、すべて信心決定以後の仏恩報謝の経営にほかならないという真宗理解の徹底を意図したものであったといいうるようである。

そしてそのような真宗領解は、ことにその信心を、善知識を媒介とするところの本願、名号に対する帰属、帰托と理解するところ、そこでは明らかに、仏教における行道の基本的構造としての選びの論理を欠落し、また親鸞によって明示された信心における宗教的主体の確立ということも成立するはずはなく、それはむしろ、当時の封建支配体制確立期の状況によく順応し、それを補完してゆく役目を果していったのである。




四、覚如における真宗信心の屈折

 このような覚如における真宗信心の理解、その真宗教義の封建体制化については、また次の如き問題が指摘されてくるのである。

すなわち、第一には、真宗者の生活規範として儒教倫理を導入したということである。

その『改邪鈔』には、

「それ出世の法においては五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁義礼智信をまもりて、内心には他力の不思議をたもつべきよし、師資相承したてまつるところなり」

と明かしている。

真宗者の常の在りようは、内面的には他力の信心を保ちつつ、外相には仏法では五戒といわれ、世法では五常と名づけられる、仁義礼智信の五種の徳目を守って日暮しせよというのである。

この仁義礼智信の五常とは、もと中国の孟子(前3〜4世紀)の思想に発したものであるが、後に発展して儒教における原理的な倫理規範となり、またそれは縦の倫理として、専制君主による封建統治の理論ともなっていったものであった。

日本における儒教は、すでに四、五世紀の頃に伝来したといわれるが、それは奈良時代においては、主として仏教とともに国家統治の理論として採用されたものであって、そこでは内面的な心的態度としては仏教に学び、外面的な行動規範としては儒教に拠るということが行なわれてきたわけである。

そしてその後も、儒教は長くこのような様式をもって日本人に受容伝統されていったのである。

覚如がここに真宗者の行動原理として五常を導入したのも、またかかる伝統を継承したものである。

親鸞にはまったく見られなかったところの儒教倫理の是認である。

親鸞においては、念仏者の日常的実践としては、現実の状況のただ中で、念仏を申すものに開かれてくるところの「世のいのり」に基ずく、主体的な行為の選択とその実践をうながすのみであった(34)。

にもかかわらず覚如は、この儒教倫理としての五常を、それが仏教の生活規範としての五戒と重層、即一するという解釈のもとに、真宗に導入したのである。

このことは、明らかに真宗信心の儒教的解釈、その体制化を意味するものにほかならない。

それ以来、このような理解は長く近世、近代に至るまで伝統され、真宗者の生活規範としては、もっぱらこの儒教倫理としての五常が繰返して語られることとなり、真宗者の実践倫理として、多大の影響を及ぼすこととなっていったわけである。

 そしてまた、覚如における真宗信心の封建体制化については、その教学理解において、本地垂述思想を導入し、神祇崇拝を肯定していったという問題がある。

すなわち、その『御伝鈔』の巻下第四段には、親鸞が関東より京都に帰る途次、箱根の山にさしかかった時、一人の翁が現われて、箱根権現の夢告があったといい、鄭重に迎えて珍味をもって饗応したと記している。

また次の第五段には、親鸞の門弟であった平太郎が、務めのために熊野権現に参詣することとなり、それについて親鸞に尋ねたところ、真宗は一向に念仏すべきであるが、神の本地は仏であって、それは「群類をして願海に引入せん」(御伝鈔)と願うものであれば、案ずべきことではないといわれた。

そこで平太郎は権現に参詣したが、その夜に夢を見た。

それは権現が俗人の姿を現わして平太郎の欠礼をなじった時、親鸞が現われて平太郎は日頃自分の教えを学ぶものである旨を弁明したら、その俗人は鄭重に敬礼をなして何も問うことはなかったというものである。

これらの記伝が、果して歴史的事実であったかどうか、はなはだ疑問である(35)。

今はその事実の有無は別として、これら二種の記伝が、いずれも本地垂迹思想を肯定し、それを真宗信心の理解に導入することによって、真宗信心が神祇崇拝を否定するものではなく、むしろそれを肯定し、そのことが仏の本願に順ずるものであることを弁明しようとすることに注目すべきである。

本地垂迹思想とは、すでに奈良時代に始まったもので、日本の神々は、すべて仏、菩薩を本地とし、その現実への化現にほかならないとする神仏習合の発想であるが、それは鎌倉期以降の封建体制化進行に重なって、あらゆる要素と価値をその支配秩序に組入れてゆくところの、保守反動の論理となっていったものであったわけである(36)。

覚如はそのような保守反動の論理としての本地垂迹思想を、真宗教義の中に導入し、そのような論理に基ずいて真宗信心を解釈したのである。

また覚如には、『慕帰絵詞』によると、京都の北野神社をはじめ、紀伊和歌山の玉津島明神や奈良の春日大社、その他の神社に参拝したという記録がある(37)。

いずれも和歌、漢詩を作るためのものではあるが、ここにもまた覚如の神祇観がうかがわれるところであろう。

親鸞においては天神地祇の神々の存在は否定されてはいない。

それは中世の世界観からすれば当然のことであって、親鸞における阿弥陀仏に対する一向なる帰依、その専修念仏、唯以信心という領解は、このような中世の多神教的世界観の上に成立したものであったのである。

そして親鸞は、その神々の中の善神はよく念仏者を守護し、悪神はすべて念仏者を畏怖して近ずかないといっている(38)。

中世の人々にとっては、神々とは人間を超えて存在し、あらゆる魔力を有するものであって、人々はその神々の威力に恐怖し、それに信伏し、それに懇願するほかはなかったのである。

にもかかわらず、親鸞は、

「信心の行者には天神地祇も敬伏し魔界外道も障碍することなし」(歎異抄)

と明かす如く、そのような多神教的世界観を超え、それを克服して生きる、新たなる絶対的主体を確立する道を明らかにしたわけである。

したがって親鸞においては、このような神祇に対する帰依敬礼は徹底して拒否されているのである。

「仏に帰依せば終にまたその余の諸天神に帰依せざれ」

「自ら仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道に事ることをえざれ。天を拝することをえざれ。鬼神を祠ることをえざれ。吉良日を視ることをえざれとなり」(化身土巻)

「かなしきかなや道俗の良時吉日えらばしめ、天神地砥をあがめつつト占祭祀をつとめとす」(正像末和讃)

などと明かすものがそれである。

親鸞の念仏、信心においては、一貫して神祇不拝の立場が主張されたわけであるが、それはまた親鸞の信心が、旧き自己に死して新たなる自己に生まれるという、まったく新しい宗教的主体の確立を意味するものであるかぎり、その信心に生きることの必然的な結果でもあったわけである。

その点、覚如がこのように神祇崇拝を肯定し、本地垂迹思想を導入したということは、その当時、念仏者の神祇不拝に対する非難が続き、また社会的風潮にともなって、保守反動の論理としての本地垂迹思想が主張されるという社会的状況の中で、新しく本願寺教団の組織化を意図し、それを実行しようとするかぎり、また止むをえないことであったといいうるかも知れない。

しかしながら、そこには覚如の信心理解において、それがまことの主体の確立を意味するものであることが見失われてゆき、親鸞との乖離が生まれて、その屈折、変質が始まっていることも明確に指摘されるべきであろう。

 そしていまひとつ注目すべきことは、覚如の真宗理解、その教化の姿勢において、著しい貴族化が生まれていることである。

覚如は大谷廟堂、本願寺を中心とする新しい中央集権的な教団体制の確立を目指したわけであるが、その晩年には、かかる意趣に従って、念仏者の心得として十三箇条の制約を作成している。

すなわち、貞和二年三月に定められた『専修念仏の衆中に存知すへき条々』と題されたものである。

そこには明らかに本願寺を中心とする中央集権的教団体制の確立の意図が明白であるが、ことにその第十三条には、

「御門下と号するある一類のなかに、この法をもて旃陀羅を勧化すると云々。
あまさへ、これかために、あひかたらひて値遇出入すと云々。
こと実たらははなはたもて不可思議の悪名なり。
本所にをひて、ことにいましめ沙汰あるへし。
是非すてにこの悪名のきこへあるうへは、なかく当寺の参詣を停止せしめて、外道の道路に追放すへき歟。
(中略)しかるうへは奉公といひ、交衆といひ、さらに世俗よのつねの礼法にそむきかたき日、いかてか、かの屠類にあひともなひ、得意知己の儀あるへく、同朋等侶の眤あるへきや、もとも瑕瑾の至極たり(39)」

と定めているのである。

それは旃陀羅、屠類という社会の下層の民衆に対して教化伝道し、それらの人々と同朋等侶の交流をしてはならないというものであろう。

覚如は真宗者の在りようを規定するについて、何故にこのように制戒するのであろうか。

親鸞は屠沽の下類としての猟師、商人について、「いし、かわら、つぶて、のごとくなるわれらなり」(唯信鈔文意)

といい、そのような社会の底辺に生きる下層の民衆を自己の社会的立場とし、そこを基点として念仏を学び、その教法を伝えていったのである(40)。

それに対して覚如は、このように下層の民衆を厳しく差別し、排除していったわけである。

このことは、ひとえに当時の保守反動的社会体制に追随しつつ、自ら貴族意識をもって、中央集権的な教団組織の形成を意図した覚如の行動としては、また必然的な帰結であったのであろう。

ここにもまた覚如における真宗信心の体制化、親鸞における信心との乖離が明らかに指摘されうるのである。

 以上、覚如における真宗信心の屈折、その体制化をめぐって、ことにその儒教倫理の導入、神祇崇拝と本地垂迹思想の肯定、下層民衆に対する差別排除の問題について考察してきたが、ここには明らかに、覚如における真宗理解が、当時の歴史的社会的状況において、封建体制確立途上の保守反動的傾向が濃厚であったことと、そのような状況のただ中で、大谷廟堂、本願寺を中心とする中央集権的な真宗教団の形成を企図したことに関連して、親鸞のそれとはかなり乖離し、屈折していることが指摘できるのである。

すなわち、親鸞における信心とは、旧き自己に死して新しき自己に生まれるという、まったく新たなる宗教的主体の確立を意味するものであり、それは必然に、鋭い人間変革の論理を宿し、また同時に、たくましい社会変革の動力をも秘めるものであったが、覚如における信心とは、そのような変革の論理や動力を著しく欠落し、親鸞が志向したものには逆向しつつ、当時の状況によく順応し、追随するものとして、反動化し体制化しているといわざるをえないのである。

親鸞によって開顕された真宗信心は、この覚如に至って、大きく屈折し、変質していったのである。





(1)この文は直ちに親鸞のものではなく、その門弟の蓮位の筆になるものであるが、その末尾に、この文は親鸞によって承認された旨が記されているところから、いまは親鸞の意趣を伝える資料として用いることとする。
(2)拙稿「親鸞における信の性格」(龍谷大学論集第四一〇号)参照。
(3)拙稿「真宗における真俗二諦論の研究」その一(龍谷大学論集第四一八号)「同」その二(真宗学第六五号)「真宗における聖典削除問題」(講座日本近代と仏教6戦時下の仏教)「親鸞における国家の問題」(親鸞と世界創刊号)参照。
(4)覚如の学系については、主として重松明久『覚如』および『本願寺史』第一巻に依拠した。
(5)黒田俊雄『日本中世の国家と宗教』(中世国家と神国思想)参照。
(6)瓜生津隆雄「西山典籍と安心決定鈔」(真宗学第二五、二六号合併号)参照。
(7)顕誓『反古裏書』(真聖全三の九八○)
(8)拙稿「親鸞における唯信の思想」(龍谷大学論集第四〇〇、四〇一合併号一参照。
(9)拙稿「親鸞における念仏と信心」(真宗学第四五、四六合併号)参照。
(10)梯実円「歎異抄の行信思想」一伝道院紀要第二二、二三号)参照。
(11)石田充之『日本浄土教の研究』(西山派祖證空師の浄土教)二〇八、九頁参照。
(12)重松明久『日本浄土教成立過程の研究』(法然及びその門下と一念義)四二三頁参照。
(13)『西方指南抄』巻下本(真聖全四の二一一)にも同意の文がある。
(14)望月信享『略述浄土教理史』四二六頁参照。
(15)乗専『最須敬重絵詞』巻五(真聖全三の八四六)参照。
(16)従覚『慕帰絵詞』巻三(真聖全三の七八○)参照。
(17)真仏『経釈文聞書』(高田学報第九輯)参照。
(18)顕智『聞書』(高田学報第四四輯)『抄出』(高田学報第一一輯)参照。
(19)『親鸞聖人血脈文集』後跋の文(真聖全二の七二二)参照。
(20)従覚『慕帰絵詞』巻一〇(真聖全三の八一〇)参照。
(21)乗専『最須敬重絵詞』巻一(真聖全三の八二七)参照。
(23)赤松俊秀『鎌倉仏教の研究』(鏡の御影の賛について)一六六頁参照。
(24)この賛文が親鸞の自筆であるとは、赤松俊秀氏の見解(鎌倉仏教の研究・親鸞像について、鏡の御影の賛について)に従った。ただし宮崎円遵『初期真宗の研究』(親鸞の寿像鏡御影私考)二八三頁では、親鸞のものとは認めがたいとし、画像の筆者である専阿弥陀仏の手になるものであるとする。
(24)この下部の賛文は、赤松俊秀『鎌倉仏教の研究』(鏡の御影の賛について)一六五頁によると、上半分と下半分とに紙の継目があって、その筆致が異っており、後に補筆したものであろうといわれている。またこの文について「流転之家」および「無為之城」の語には注意されるべきで、それは『正信念仏偈』の文とも『念仏正信偈』の文とも相違しているのである。
(25)赤松俊秀『鎌倉仏教の研究』(鏡の御影の賛について)一六八頁参照。
(26)宮崎円遵『初期真宗の研究』(親鸞の寿像鏡御影私考)二八六頁参照。
(27)重松明久『覚如』八三頁参照。
(28)覚如はまたこの『正信念仏偈』の一連の句を、本派本願寺蔵の親鸞、如信、覚如の連座像の賛文にも書いている。もって覚如が、この句に深く執心していたことがうかがわれるわけである。
(29)『尊号真像銘文』(真聖全二の六〇〇以下)
(30)拙著『浄土教における信の研究』(法然における信の思想)参照。
(31)拙著『浄土教における信の研究』(聖覚における信の思想)参照。
(32)拙稿「親鸞における念仏と信心」(真宗学第四五、四六合併号)「親鸞における称名の意義」(真宗学第五五号)参照。
(33)藤枝昌道「信行両座の記伝について」(顕真学苑論集第四八号)参照。そこでは「信行両座の記伝の如きが果して史実であったかどうか全く疑問である。(中略)御伝鈔の記述は覚如の技工による創作であるとすべきであろうか」といっている。
(34)拙稿「親鸞における信と社会的実践」(親鸞教学第三十八号)参照。
(35)この記伝は『御伝鈔』より早く成立したと考えられる『親鸞聖人御因縁』の中の「真仏因縁」を素材として生まれたものであろうといわれている。宮崎円遵『初期真宗の研究』(『親鸞聖人御因縁』ならびに『秘伝抄』について)参照。
(36)黒田俊雄『日本中世の国家と宗教』(鎌倉仏教における一向専修と本地垂迹)参照。
(37)従覚『慕帰絵詞』巻六、巻七(真聖全三の七八九、七九二、七九三)参照。
(38)『現世利益和讃』「天神地祇はことごとく善鬼神となづけたり、これらの善神みなともに念仏のひとをまもるなり」「願力不思議の信心は大菩提心なりければ、天地にみてる悪鬼神みなことごとくおそるなり」(真聖全二の四九八)。
(39)日下無倫「中世に於ける真宗と戒律」(仏教史学第一号)参照。
(40)拙稿「親鸞における信と社会的実践」(親鸞教学第三十八号)参照。