【マザー・テレサ】
  【マザー・テレサ】  

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主よ、今日一日、 貧しい人や病んでいる人を助けるために、 私の手をお望みでしたら、 今日、私のこの手をお使い下さい。 主よ、今日一日、 友を欲しがる人々を訪れるために、 私の足をお望みでしたら、 今日、私のこの足をお貸しいたします。 主よ、今日一日、 優しい言葉に飢えている人々と語り合うため、 私の声をお望みでしたら、 今日、私のこの声をお使い下さい。 主よ、今日一日、 人は人であるという理由だけで、 どんな人でも愛するために、 私の心をお望みでしたら、 今日、私の心をお貸しいたします。
  









主よ、私は思いこんでいました。 私の心が愛に漲っていると。 でも心に手を当ててみて、本音に気づかされました。 私が愛していたのは、他人ではなく、 他人の中の自分を愛していた事実に。 主よ、私が自分自身から解放されますように。 主よ、私は思いこんでいました。 私は与えるべきことは何でも与えていたと。 でも、胸に手を当ててみて、真実がわかったのです。 私の方こそ与えられていたのだと。 主よ、私が自分自身から解放されますように。 主よ、私は信じ切っていました。 自分が貧しい者であることを。 でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。 実は思い上がりと妬みとの心に、 私がふくれあがっていたことを。 主よ、私が自分自身から解放されますように。
  









私は皆さんが考えておられるような ノーベル平和賞の受賞者にはあたいしません。 でも、 だれからも見捨てられ、愛に飢え、死に瀕している 世界のもっとも貧しい人びとにかわって賞を 受けました。 私には、受賞の晩餐会は不要です。 どうか、 その費用を貧しい人たちのためにおつかいください。 私にあたえられるのは 祈りの場だけしかないのですから。
  









私の白いサリーは、貧しい人のなかで、 私も貧しい人のひとりだというしるし。 私の身なりも生活も、病に倒れた人や、 骨ばかりの子どもとひとつになるための糧。 そして、 不親切で冷淡でありながら奇蹟をおこなうよりは、 むしろ親切と慈しみのうちに間違うほうを選びたい。
  









貧しい人にふれる時、わたしたちは、 実際にキリストの身体にふれているのです。 わたしたちが、食べ物をあげるのは、 着物を着せるのは、住まいをあげるのは、 飢えて、裸の、 そして家なしのキリストに、なのです。
  









貧しい人たちはね、 オキ、 お金を恵まれるよりも食べ物をあたえられるよりも、 なによりもまず自分の気持ちを聞いてほしいと 望んでいるのよ。 実際には何もいわないし、声も出ないけれどもね。
  









健康な人や経済力の豊かな人は、 どんなウソでもいえる。 でもね、 飢えた人、 貧しい人は、 握り合った手、 みつめあう視線に、 ほんとうにいいたいことをこめるのよ。 ほんとうにわかるのよ、 オキ、 死の直前にある人でも、 かすかにふるえる手が 「ありがとう」っていっているのが。 ……貧しい人ってほんとにすばらしいわ。
  









小さな子どもたちは神様の命、 多すぎるということはありません。
  









オキ、 あなたの国では、 人びとは何不自由なく生きているように思えるけれども、 心の飢えをもっている人はたくさんいるでしょう。 だれからも必要とされず、 だれからも愛されていないという心の貧しさ、 それは一切れのパンに飢えているよりも もっとひどい貧しさなんじゃないかと、 私は思うの。 オキ、 ほんとうにあなたのまわりにはいないといえますか? だれも自分を必要としていないのだと思っている人が、 もっと親と話したいと思っている子どもが、 すんでいる部屋のナンバーでしか存在していない人が ・・・・
  









こんな老人は、 ニューヨークでもロンドンでも東京でも、 いっぱいいるんですよ。 ひとり暮らしの老人が 死後何日もたって発見されたり、 隣に住んでいる人が病気なのに 名前も知らなかったり、ね。 私は、そういう貧しい人につかえるために、 いつでもどこにでも とんでいきつづけるつもりなのですよ。
  









今日の最大の病気は、 らいでも結核でもなく、 自分はいてもいなくてもいい、 だれもかまってくれない、 みんなから見捨てられていると感ずることである。
  









最大の悪は、 愛の足りないこと、 神からくるような愛の足りないこと、 すぐ近くに住んでいる近所の人が、 搾取や、 権力の腐敗や、 貧しさや、 病気におびやかされていても 無関心でいること。
  









・・・・病気の人、 苦しんでいる人にとっては、 この会の人がいたわりと慰めの 天使でありますように。 わたしどもの貧しさの生活は 仕事にも劣らず必要である。 どれほど貧しい人に借りがあったか、 天国へ行ってはじめてわかる。 彼らのことでもっと神を 愛することを教えられたということのために。
  









親切で慎み深くありなさい あなたに出会った人がだれでも 前よりももっと気持ちよく 明るくなって帰れるようになさい 親切があなたの表情に まなざしに、ほほえみに 温かく声をかけることばにあらわれるように 子どもにも貧しい人にも 苦しんでいる孤独な人すべてに いつでもよろこびにあふれた笑顔をむけなさい 世話するだけでなく あなたの心を与えなさい
  









協労者は、行為に愛をあらわすべきです。 私たちの愛の仕事は、 平和の仕事にほかなりません。 より大きな愛を持って、 てきばきとこの仕事を果たしましょう。 それぞれの仕事で、 毎日の生活で、 家庭で、 周りの人といっしょに。
  









ある人びとが豊かに生活できるのは、 それなりの理由があるはずです。 そのために働いてきたに違いありません。 ただ、 私は物が浪費されるのを見ると 怒りを感じるのです。 私なら使えるものを 人びとが平気で捨てる時に。
  









目の不自由な人がそばにいれば、 自分が読んでいる新聞を声を出して 読みあげるだけでいい。 それも自分が読みたい時間にで充分。 いや、 何もしなくても、 そこに何かで苦しんでいる人がいるということを 知っているだけでいいのです。
  









オキ、 私はね、どんな人でも、 もっとも貧しい人びとのために 何かしたいという 愛の心を持っている人なら歓迎しますよ。 プロテスタントでも回教徒でも、 ユダヤの人でもヒンズー教徒でも、 オキの国の仏教徒でもね。 隣人に奉仕するのは 献身と祈りと愛によってですよ。
  









私はね、 人間的なあつかいをうけていない人たち、 社会から拒絶され、きらわれ、軽蔑されている人たち、 この世でもっともひどい病気に 苦しんでいる人たちのもとに いかなければならないのよ。 でもね、オキ。 あなたたちは、もっと身近なことからはじめたらどうかしら。 病院に入院している患者に花を持っていってあげるとか、 年とった人のために窓を拭いたり洗濯をしてあげるとか、ね。 浮浪者のために社会保障の用紙に記入する手助けするのだって、 目の不自由な人のために手紙を書いてあげることだって、 とてもりっぱな愛の表現なのよ。
  









いまの世の中、 人間が人間を 見捨てているのよね。 親が子を、 子が親を、 兄が弟を、 友が友を、 隣人が隣人を。
  









子どもはあなたの愛を待っているのよ。 一対一のね。 あなたが働いてその子のパンを稼いできても、 その子がほうっておかれるんじゃ どうしようもないでしょう。 いま、 ほとんどの人が、 生活をもっと豊かにしようと、 忙しく働いていて、 子どもたちは両親とすごす時間が とても少なくなっています。 私たちが接している貧しい人たちは 物質的には豊かじゃないけれども、 ほんとうに子どもを愛していますよ。 その意味では、 世界一の幸せ者かもしれませんね。
  









愛は家庭に住まうものなんですよ。 子どもを愛し、 家庭を愛していれば、 何も持っていなくても しあわせになれるのですよ。
  









国と国の間に大きな違いはありません。 どこへ行っても出会うのは人びとですから。 異なった外見、 異なった教育や異なった地位ではあっても、 みなおなじです。 どの人もみんな愛すべき人です。 みんな愛に飢えています。
  









あなたがたがもし、 苦しんでいる兄弟姉妹のひとりひとりを 思いおこすなら、 仕事はもっとらくに感じ、 貧しい人たちにたいしても もっと心の底から微笑むことができるでしょう。 もし、 貧しい人びとが飢え死にするとしたら、 それは神がその人を愛していないからではなく、 あなたが、 そして私が、 その人たちにパンを、 服を、 そして愛を、 思いやりをあたえなかったからなのです。
  









飢えている人がいます。 でもそれは、 パンがないためではありません。 愛、思いやりへの飢え、 だれかの「自分」でありたいという思いが みたされない飢えなのです。 裸の人もいます。 服がないということではありません。 見ず知らずということだけで、 やさしい心づかいを しめしてもらえないという意味で裸なのです。 でも、それらの人びとに話すことは できるだけ少なくしましょう。 説教してきかせても、 それは人とふれあう場にはなりません。 ほうきをもってだれかの家を きれいにしてあげてごらんなさい、 そのほうがもっと雄弁なのですから。
  









私は社会福祉家でもなければ、 慈善事業家でもないのですよ。 私はキリストのためにやっているだけですから。
  









私かもし、 社会福祉や慈善のために活動するのだったら、 しあわせだった家も捨てなかったでしょうし、 両親とも別れなかったでしょう。 私は神に捧げた身ですから、 いま私がしていることは ヒューマニズムでもなんでもないんですよ。 ごく当たり前のことなんですよ。
  









日本には、神に飢えた人がたくさんいます。 生活に祈りを持つようにしてください。 祈れば、心が澄み、心が澄めば、 神が見えてきます。 神が見えれば神の愛が働いて、 ことばでなく 行動で愛をあらわしたくなります。 祈りは、愛を深くし、愛が奉仕を生みます。 日本の人も祈って下さい。 生活に祈りを持てば、 貧しい人びとを知るようになります。 貧しい人を知れば、 彼らを愛するようになり、 助け、愛と平和の喜びをあたえます。
  
マザーは昭和56年4月22日に来日、28日までの1週間日本に滞在しました。 日本人にたいしてマザーが残した数々のメッセージの中からご紹介します。










家庭に、神の愛をもたらせば、 平和と喜びがみち、それは隣人にも及びます。 家庭が、共に祈れば共にあり、 共になれば愛し合います。 愛があれば分かち合います。 隣人を訪ね、 その愛は自己犠牲にまで高まります。 そして、愛はまた愛を生みます。
  









狭い路地を何度も曲がって歩きました。 私がショックだったのは、 酔っ払った中年の男の人が路上に倒れているのに、 誰も手をさしのべる人がいなかったことです。
  









「けさ、私は、この豊かな美しい国で孤独な人を見ました。 この豊かな国の大きな心の貧困を見ました。」 「カルカッタやその他の土地に比べれば、貧しさの度合いは違います。 また、日本には貧しい人は少ないでしょう。」 「でも、一人でもいたら、その人はなぜ倒れ、なぜ救われず、その人に日本人は 手をさしのべないのでしょうか。 その人が飲んだくれだから! でも、彼もわたしたちも兄弟です。 本人はきっと孤独でしょう。 みながら無視されての……。やけ酒かもしれません。」 「私は、短い間しか日本に滞在しないので 手を貸してあげるのは、せんえつだと思い、何もしませんでしたが、 もし、女の人が路上に倒れていたらその場で、 語りかけたり、助けていたと思います。 豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。 だれからも必要とされず、だれからも愛されていないという心の貧しさ。 物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻です。 心の貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、 もっともっと貧しいことだと思います。 日本のみなさん、豊かさの中で貧しさを忘れないでください。」
  









死は、 かなしいことではありません。  私たちが悲しむべき唯一のことは、 自分が聖なる者になっていないという 事実だけです。  
  









祈りは、 心を広くしてくれます。  神様ご自身を、 賜物として 心の中にお入れできるほどに、 広くしてくれます。 
  









祈りは信仰を生み、 信仰は愛を生み、 愛は貧しい人々のためへの 奉仕を生みます。 
  









生活の中にいろいろのことが入り込むので祈れない、 という言い訳をする人たちがいます。  そんなことはあり得ません。  祈るために、仕事を中断する必要はないのです。  仕事を祈りであるかのようにし続ければよいのです。  黙想をいつもしている必要もなければ、 神と語っていることを意識することも 必要ではありません。  どれほどそれがすばらしい体験であるにせよ、 大切なのは、神と共にあり、神と共に生き、 神のみこころを自分のものとして行うことなのです。  清い心で人々を愛し、すべての人、 特に貧しい人々を愛することが、 間断ない祈りになるのです。 
  









祈るためにまず必要なのは、 沈黙です。 祈る人とは、 沈黙の人といってよいでしょう。
  









神さま、何卒私を、 世界中に散らばっている兄弟姉妹、 貧しく生き、誰にも看取られることなく死んでいく人々に 奉仕するにふさわしい者にしてください。  私たちの手を使って、こういう人たちに、 今日必要な糧をお与えください。  そして私たちの愛を使って、 平和と幸福を彼らにもたたらしてやってください。 
  









祈りは願いごとではありません。  祈りとは自分自身を神のみ手の中に置き、 そのなさるままにお任せし、 私たちの心の深みに語りかけられる 神のみ声を聴くことなのです。 
  









救われるためにはどうしたらよいでしょうと 尋ねる人があったら、 私の答えは 「神さまを愛することです。  そして、何よりもまず祈ること」
  









私がお願いすること。  飽くことなく与え続けてください。  しかし残り物を与えないでください。  痛みを感じるまでに、 自分が傷つくほどに与えつくしてください。 
  









注がれる神の愛に心を開いて下さい。 神はあなた方を優しく愛していてくださいます。 そして神から頂いたものは、 錠をかけてしまい込んでおくものではなく、 人々と分かち合うためのものなのです。 貯めれば貯めるほど、与える機会を失ってしまいます。 持ち物が少ないほど、人々と分かち合うことも易しくなります。 何かをくださいと神にお願いするとき、 同時に寛大な心にして下さいという お願いもしましょう。
  









与えることを学ばなければなりません。  でも、与えることを義務と考えるのではなく、 与えたいという願いとすることが大切です。  一緒に働いている人たちにいつも言っていること。  「余った物、残り物はいりません。  私たちが仕えている貧しい人たちは、 あなた方からの憐れみも、見下すような態度も 必要としていないのです。  彼らが必要としているのは、 あなた方の愛と親切なのです。」
  









私たちは忙しすぎます。  だからお互いを見つめ合う時間も、 互いにほほえみ合う時間も 持ち合わせていないのではないでしょうか。 
  









この地上で神と共にある幸せを享受するためには、 次のようなことが必要となります。  神が愛されるように人を愛すること。  神がなさるように人の手助けをすること。  神が与えるように人に与えること。  神が手を伸べてくださるように 人に手をさしのべること。 二十四時間、つまり一日中神のみ前に生きること。  そして貧しい人々、苦しんでいる人々の中におられる 神に触れていること。 
  









イエスを歓迎するために、 私たちの方から進んでお出迎えに行きましょう。 イエスは私たちのもとに飢えた人の姿、 裸の姿、寂しい人の姿、アルコール依存者、 麻薬中毒者、売春婦、路上の物乞いの姿で おいでになります。  誰からも構われない寂しい父親、母親、男の人、 女の人の姿でいらっしゃることがあるかも知れません。 もしも私たちが、その人たちを見殺しにするなら、 手を差しのべないなら、 それはイエスその方を見殺しにしたことになるのです。 
  









神にとって重要なのは私たちの愛なのです。  私たちの一人として この世になくてはならない者ではありません。  神はご自分でしようと思し召せば 何でもおできになるし、 最も有能な人間の業でさえ 無価値なものとすることがおできになるのです。 倒れるまで一生懸命働くことも、力以上に働くことも、 してできないことではありません。  でも、そんなに働いても、 それが愛に基づいてなされていないなら、 神の目には無益なことでしかないのです。 
  









キリストの復活の喜びを忘れてしまうほどに、 あなたの心が 悲しみに奪われるようなことがあってはなりません。  私たちは皆、神の楽園を憧れています。  でも実は私たちは、今、置かれたところで 楽園を味わうことが出来るのです。  今日ただ今、 キリストとともにいる幸せが見出せたら、 その時、それは可能になるのです。 
  









愛はどこから始まるのでしょうか?  私たちの家庭からです。  いつ始まるのでしょうか?  ともに祈る時に始まります。  ともに祈っている家族は 崩壊することがありません。 
  









愛は身近の人―家族―を 気づかうところに始まります。 私たちの夫、妻、子どもたち、 または親たちが、 いっしょに住んでいながら、 十分に愛されていないと感じ、 孤独な生活をしているのではないかと 反省してみましょう。  そのことに気づいているでしょうか?  年老いた人々は今日、 どこにいるのでしょう?  介護施設(あればの話ですが)の中です。  なぜ?  それは彼らが邪魔だから、 厄介者だから、 そして・・・・・
  









傲慢さは、 すべてを壊してしまいます。  イエスのように生きる秘訣は、 心の柔和で 謙遜な人になることです。 
  









喜びは祈り 喜びは力 喜びは愛 喜びは、私たちが人々の心を捕える網
  









私は、親切にしすぎて間違いを犯すことの方が、 親切と無関係に奇跡を行うことより、好きです。 
  









生命は神からの賜物です。  胎児の中に、 すでに生命が宿っています。  人間の手で、 生命を奪うことは許されません。  出生以前に生命を断たれた子どもたちの叫びは、 神の耳に届いています。 
  









苦しみが私たちの生活に訪れてくる時、 ほほえみをもって受け入れましょう。  神が送り給うすべて、求め給うすべてを ほほえみながら受け入れる勇気は、 神からの最も偉大な賜物といえましょう。 
  









一緒に住んでいたり、 または血のつながった親族といった人たちに ほほえみかけることは、 あまり親しくない人々に対して ほほえみかけるよりも むずかしい時があるものです。  「愛は近きより」ということを 忘れないようにしましょう。 
  









お金を恵むだけで満足しないようにしましょう。  お金がすべてではありません。  お金は手に入れようと思えば手に入れられるものです。 
  









苦しみそのものには価値はありません。  キリストと、 その受難を分かち合えるものとなった時、 私たちの苦しみは、 この世で最も貴い賜物になるのです。 
  









あなたのごく近くに、 愛情と優しさに飢えている人々が、 きっといます。  どうぞその人たちを見捨てないで下さい。  彼らに人間としての尊厳を認め、 あなたにとって大切な人たちなのだと、 真心こめて認めてやって下さい。  あなたからの愛と優しさに飢えている人とは 誰なのでしょう。  イエスご自身に他ならないのです。  苦しんでいる人の姿のもとにまします、 イエスご自身なのです。
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