【 カトリック 教会憲章】      
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公会議って何
 『教会憲章』に入る前に、『教会憲章』が生まれた土台となる<第2バチカン公会議>とは何だったのかを見る必要がありますが、今回は、その<公会議>について見てみましょう。


公会議の起源
公会議の起源は、聖書の中の『使徒言行録』15章に書かれている<エルサレムの使徒会議>です。この会議は、紀元62年に行われました。ユダヤの地が中心だったキリストを信じる者たちの集まりは、聖霊降臨の後各地に広まり、地中海沿岸でもキリスト教の洗礼を受ける人々が増えてきました。しかし、いろいろな人が増えるにしたがって、問題が出てきました。

 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。(使徒言行録 15.1〜2)

使徒たちを中心とするエルサレムのキリスト者たちは、まだユダヤ教の習慣(割礼)を守っていました。しかし、同じユダヤ人でも地中海沿岸に分散して住んでいる人々つまりギリシャ語を話すユダヤ人たちや、ユダヤ人以外の人々(異邦人)がキリスト教を受け入れるようになると、どこまで、ユダヤ教の習慣を強いるのかが問題になってきました。そこで洗礼を受けて「神の民」に入ることを希望する人々に対して、どのようにするかが議論されたのです。

 そこで、使徒と長老たちは、この問題について協議するために集まった。議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神があなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。……」(使徒言行録 15.6〜8)

次にヤコブが答えます。

それでわたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。(使徒言行録 15.19)

 教会の中に起こった問題を検討するため、使徒をはじめ教会のリーダーたちが集まります。使徒たちは協議した結果を、当時の教会の責任者であるペトロと一致して、またペトロの導きのもとに信徒に向かって宣言します。ここに、公会議の要素があります。


公会議とは
 つまり公会議は、信仰内容や規範に疑義や異論が生じたときに、協議し、 結論を出すために、教皇(教会の最高裁治権者の後継者)が世界中の司教(使徒たちの後継者)たちを召集し、主宰する世界教会会議(concilium oecumenicum)です。

教皇の呼び名:キリストの模範に従って父としての配慮をもって権力を行使することから、「パパ」Papa([英]pope)と、親しみを込めて呼ばれています。


第2バチカン公会議
今回は、『教会憲章』を生んだ<第2バチカン公会議>について見てみましょう。


聖霊の促し
 第2バチカン公会議は、教皇ヨハネ23世の一言で始まりました。  1958年に教皇に選ばれたヨハネ23世は、翌1959年1月に、国務長官との会談を行いました。その席上で、公会議のことを語っていますが、この発言に対して、一番驚いたのは自分であったと語っています。
 「公会議開催が、突然の霊感としてわき起こった」
しかし、いったい何のために公会議を開いたのでしょうか。どうして公会議を開催する必要があったのでしょうか。ヨハネ23世は、1961年12月25日に出した第2バチカン公会議召集の大勅書『フマーネ・サルーティス』で、その理由を語っています。


なぜ、公会議が必要だったのか?
第2バチカン公会議召集のために書かれた『フマーネ・サルーティス』に次にような箇所があります。

 「現在、教会は人類社会が危機に直面していること、大きく変動していることを知っている。人類が新時代への転機に立っている現在、これまでの転換期にそうであったように、教会の任務は重い。教会は現代社会の血管に、福音の永遠の力、世界を生かす神の力を送り込まなければならない。現代世界は、最新の学問および技術の進歩を誇り、神を無視したこの世の社会秩序を樹立しようとする一部の人々の考えによって傷つけられている。そのため、現代社会は物質面において進歩したが、精神面に対する望みが弱くなり、大部分の人々は技術の発達によって提供される地上の安易な快楽に心をひかれている。さらに嘆かわしい状態として、多くの国に、戦闘的無神論が広がっている。

 一方においては精神的貧困に苦しむ世界、他方には生命力に満ちあふれるキリストの教会がある。私は教皇になる資格のない者であるが、神の摂理によって、この教皇に選ばれた時以来、この2つの事実に直面して、教会が現代人の諸問題解決のために貢献するよう、すべての信者の力を結集することが私の義務であると考えた。 そのため、私の心に浮かんだこの考えを超自然的霊感であると判断し、今こそカトリック教会と全人類家族にとって全世界教会会議を開催する時であると考えた。」

 中世のすべてにおいてキリスト教中心だった世界から、社会は大きく変化していました。この変化は自然科学や自由思想などの近代主義によってもたらされたものでしたが、これらの動きに対して教会は、長い間、門を閉ざしていました。社会は俗なもの、教会は聖なるところ。「天国へ行くためには洗礼を受け教会に入りなさい。」また、教会の中でも、社会運動や反聖職者主義が活発になっていました。

 ヨハネ23世の伝記『教皇ヨハネ23世』(女子パウロ会刊)を読むと、当時の神学生たちが、固く閉ざされた神学校の中で社会と隔絶された生活を送っていたことがよくわかります。神学は、細密な定義で固定され、生命の息吹が感じられず、形式的なアカデミズムに閉じこもっていました。また、神学と信仰生活の間に関連がなく、ミサは中世の形式に固定され、真の典礼的な表現になっていませんでした。
 しかし、教会のメンバーである信徒自身は、社会のまっただ中で生活しているのです。キリスト教は、社会とは別のところでの信仰でよいのでしょうか。


社会における教会の使命
 社会と教会が隔絶しているという現実とともに、教会が社会に対して果たすべき役割があることを、『フマーネ・サルーティス』では語っています。

 「人類が新時代への転機に立っている現在、これまでの転換期にそうであったように、教会の任務は重い。教会は現代社会の血管に、福音の永遠の力、世界を生かす神の力を送り込まなければならない。」

教会は、人々にキリストの光をもたらすことによって、人々が自分自身を知るように助け、人々に、人間とは何か、どれほどの尊厳をそなえたものであるかを自覚させ、どのような目的に向かって進むべきであるかを教えるのです。

 神が、人々をいつも心にかけておられるように、いつの時代も、教会は、人類を自分のふところに抱えているのです。

 それまでは、教会といってもヨーロッパ中心の世界でした。ヨーロッパ以外の地にも教会はありましたが、多くは、ヨーロッパ諸国の植民地でした。しかし、当時の世界に広がる教会を考えると、ヨーロッパ中心主義では捉えきれなくなっていました。


第2バチカン公会議開催
1962年10月11日、<第2バチカン公会議>の荘厳な開会式が行われました。
その中で、ヨハネ23世は公会議の目的を次のように述べています。

      
【公会議の目的】
  ・教会の遺産を、現代の状況に適した形で示す   ・信徒の一致   ・キリスト者の一致   ・世界と教会との一致
 第2バチカン公会議は、第1バチカン公会議後、技術的に発展し国際化した世界の中で、世界にひろがった教会が自らを、新しい姿で世に示そうとする会議でした。<アジョルナメント>、つまり、教会が現実の世界の中で、生き生きとキリストを証しすることができるように『刷新』される必要があったのです。

 教会は、長い歴史の中でいろいろなものを付け加えてきました。第2バチカン公会議は、「何が教会の本質なのか」をみきわめ、根本に戻ることを原点としました。


第2バチカン公会議の特徴
(1)第2バチカン公会議は、量的には最大の公会議で、準備にかかわった人の数は総勢900人におよび、開会当日には、2540名の参加有権者が集まった。

(2)ヨーロッパ、米国の司教団しか参加しなかった第1バチカン公会議と比べ、はるかに国際的、世界的。

(3)教会一致への道の探求、世界との関係という大きな問題と総合的に取り組んだ。

(4)今までの公会議に比べて、技術的にもっともよく準備された。

(5)共産圏の司教たちの参加は得られなかったが、その点を除けば、社会の政治的圧力からもっとも自由に開かれた会議だった。(第1バチカン公会議は、反教会的なヨーロッパの政治の影響を受け、途中で中止しなければならかった。)

(6)公会議の準備にあたって、神学、教会法の専門家だけでなく、多くの司教たちがかかわった。

このような公会議の中で、『教会憲章』は生まれました。この時代の中で、教会は自分自身をどのように見ているのでしょうか。



   ※参考文献
 ・公会議解説叢書6 『歴史に輝く教会』
    南山大学監修 サンパウロ刊1969
 ・『教皇ヨハネ23世』
    メリオル・トレバー著 女子パウロ会刊1976

『教会憲章』の概略
 今回から『教会憲章』に入っていきましょう。『教会憲章』の概略を、公会議解説叢書3『自覚を深める教会』からまとめてみました。

 前回見たように1962年10月11日、「第2バチカン公会議」が開催されました。開催の理由は、



        ・大きく変動している現代世界における教会の状態をよりよく知り、
        ・現代人が理解できる方法で教会の教えを伝えるため
であると、教皇ヨハネ23世は述べています。また、教皇は、「信仰の真理とその表現形式とを区別するように」と力説し、「信仰の真理を変えることなく、新しい表現形式をすることによって教会の現代化をはかることができる」と説きました。

 『教会憲章』は、第2バチカン公会議が公布した文章の中でもっとも重要なものです。ここには、カトリック教会がどういうものであるのかが表現されています。ですから『教会憲章』は、カトリック教会に属する者(カトリックの洗礼を受けた人)やカトリックについて勉強している人にとって、自分たちに属する教会が何であるのかを理解するための原点となる文書です。しかし、これはカトリック教会にいる者だけにとって大切なだけでなく、カトリック以外の諸キリスト教会・教団にとっても大切な文書です。カトリック信者がキリストの教会をどのように理解し、生きようとしているかを知るためです。

 教会は、その誕生から2000年近い長い歴史にわたって、地球に存在するいろいろな国の誕生を見てきました。また、教会は社会に対して大きな影響を与えてきました。福祉事業、教育事業、人間の尊厳、人権尊重、自由、平等、正義、平和などなど、カトリック教会は多くの善いものを社会に提供し、リーダーシップをとってきました。日本の文化においても、カトリック教会は大きな貢献をしてきました。
 このような点から考えると、キリスト教会だけでなく、人間の歴史を理解しようとする人にとっても、欠かすことのできない文書でしょう。


『教会憲章』の特徴
1)教会の新しい視野が提示されている  カトリック教会は長い歴史の中で、社会の中心的存在として信仰生活ばかりでなく、市民生活、文化の中心として、信仰と生活が一つになっていました。しかし、時代が過ぎていくにつれ、教会一色の世界ではなく、意見が異なる人々、宗教について理解しない人々と接するようになりました。この人たちにとって教会はどんな意味があるのでしょうか? このように意見を異にする人々と、どのように生活すればいいのでしょうか?

 これに対して『教会憲章』は「教会は救いの普遍的秘跡である」という新しい視野を示しています。カトリックが言う「救い」が、カトリックに属する人だけのものではなく、「教会はすべての人にとっての救いの秘跡である」ということです。洗礼を受けて教会に属さない人には「キリストによる救いはない」という考えではありません。キリストはすべての人のために死んでくださったのです。その「すべて」とは文字通り、信じる、信じない関係なく「すべて」の人なのです。

 ここで言う「教会」は、「カトリック○○教会」というように、建物としての教会ではありません。カトリック教会がいう「教会」とはそこに集まる人々の集まり(共同体)を言います。カトリックの洗礼を受けるということは、個人の信仰を公にするということだけではなく、その信仰は他者とのつながり---キリストを信じる人々の共同体に加わる---ということも意味します。

 「教会は秘跡である」ということは、教会が実際に目に見えるものであると同時に、真理を示し、兄弟愛と奉仕によって、他者に向かって働きかけている存在であることを示しています。教会内の人々の間で行われる愛の交わり、また教会が外に向かって働く愛の行いの中に、神の恵みが働いています。

2)聖書の引用が多いこれはできるだけプロテスタントの諸教会に近づこうという姿勢の現れです。

3)キリスト中心的で、神の霊の現存と活動を強調し、終末的性格を強く打ち出しています。


第1章 教会の秘義について
 それでは、第1章に入りましょう。  公会議は、まず最初に「教会」について語ります。「教会」というとき、建造物としての教会を想像する人もいますが、ここで言う「教会」はそうではありません。では、見てみましょう。


「秘義」とは
 第1章のタイトルに、「教会の秘義について」と書かれていますが、いったい「秘義」とは何なのでしょうか。ラテン語で<Mysterium>と言います。不思議なこと、隠されたことを意味するだけではありません。人間が理解できる方法で啓示され明らかにされた神とその救いを示しています。

 「秘義」ということばは、旧約聖書の時代では、単なる秘密(トビト記12.7、シラ書22.22)とか秘密の祭儀(知恵の書14.15、22〜23)を指していました。新約聖書の時代に入り、福音書では「秘義」を「弟子たちには明らかにされるが、一般大衆には明らかにされないもの」として書いています。

「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」(マルコ4.11、マタイ13.11、ルカ8.10)

 つまり、キリストが与えてくださる光によって、はじめて理解できるようになるのです。キリストの言葉や行いの意味、神の国の到来は秘密で隠されていて、キリストを受け入れた者だけに明らかにされるというのです。

 教会の秘義については、パウロがよく説明しています。パウロ自身の中でもだんだんと理解が深まり考えが進展していきますので、秘義の意味も次第に変わってきます。神の秘義は時が満ちるまで隠されていましたが、時が満ちて、つまりイエスがこの世に来ることによって明らかになりました。イエスが、神の秘義の具体的に目に見える形として来てくださったのです。さらに次のように言います。

「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や<霊>によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」(エフェソの信徒への手紙2.5)

第1章のタイトルとして用いられている「秘義」は、このような新約聖書に表現されている意味をもっています。第2バチカン公会議は、この「秘義」という言葉をもちいることによって、教会を単なる組織的な団体として見るのではなく、教会を神の救いの業の中に置き直して、真の意味の教会の姿を見るようにと呼びかけています。永遠から終末に向かって歩む、神の救いの業を見るようにと導いているのです。


1条(序文)
 第1条は、教会憲章の入り口で、教会憲章の内容をまとめ、方向づけています。 教会憲章は、「自分の本性と普遍的使命とを、その信者と全世界とに、より明らかに示す」ことを目的としています。何のためにそうするかというと、「教会の面上に輝くキリストの光をもってすべての人を照らす」ためであり、また「社会・技術・文化の種々のきずなによって今日、より強く結ばれているすべての人々が、キリストにおける完全な一致」の実現を目指すためです。そのために、教会は現代と切り離されたところで生きるのではなく、現代の真っ直中で生きなくてはなりません。



この第1条の中に、すでに教会の本質が書かれています。読んでみましょう。
 ・教会は、キリストにおける秘跡
 ・教会は、神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具
 「教会はキリストにおける秘跡」 これは「秘義」同様、ちょっと難しい言葉ですね。
 秘跡はラテン語で<Sacramentum>(秘跡)といい、ギリシャ語の<Mysterion>(奥義)の訳語として使われました。キリストが人間となったということは、神の救いが実現したことであり、神の人類に対する愛がイエスとなって現れたのです。ですから、イエスは、神の救いが目に見える形で現れたものとして、原秘跡と言われます。同じように、教会も、神と人類の一致のしるしなのですから、秘跡と呼ばれます。

教会は、神と出会い、神の救いをもたらすところなのですが、キリストという方あっての教会なので「教会はキリストにおける秘跡」であると言います。教会で、人は神と一致し、また全人類とも一致するのです。

 この中で求められていることに「一致」があります。神と人との一致、そして人間と人間の一致です。人間は本来、社会的な生き物で、同種の社会・技術・文化のきずなによって結ばれていました。さらに、現代は、科学技術の発達によって、同民族間だけでなく、異なった文化をもつ国と国とを近づけ、人類を一致へと向かわせています。他方、引き裂かれていく力もあります。

キリストが教会をたてたのは、人類が救われ、一つになるためでした。キリストはこの一致のために、私たちの間に人間として来られたのです。


第1章 教会の秘義について 2〜8条
今回は、第1章の第2条からです。

 第2条〜第4条は、父、子、聖霊が登場し「三位一体の神」から教会を見ます。まず、人類を救おうという父の計画があり、教会を通してその救いを実現するために子が派遣され、子によって始まった教会を常に聖なるものとするために派遣される聖霊へ、と続きます。


第2条 父なる神の救いの計画
 まず大切なのは、キリスト教の神は人々をご自分の生命に与るように招かれている方であるということです。高いところにいて人類を見下ろしているだけで、実際に人と関わろうとしない方ではありません。一番大切な中心である「神の生命」に招いてくださっているのです。そのような神である父は、キリストを信じる人々を「聖なる教会」に集めてくださいました。信じている者が、一人ひとりがバラバラでいてもいいはずです。しかし、私たちの神は、一人ひとりを孤立した状態ではなく、キリストを信じる者の家族としてくださったのです。このようなものとして、教会を置かれました。時代を越え空間を越えて、信じる人々は教会において一つになるのです。

 このような「教会」は、世の初めからあらかじめ示され、旧約の時代を通して準備され、キリストがこのよ世に来られたことによって、設立され、聖霊によってますます神に生かされ、キリストを通して父に近づくことができるようになるのです。


第3条 子の派遣
 時が満ちて父から子イエス・キリストが派遣され、私たちと同じ人間としてこの世に住まわれました。キリストは父の望みを果たすために地上で天の国を開始し、教会を始められました。

教会の起源は「十字架につけられたイエスの開かれた脇腹から流れ出た血と水」(ヨハネ19.34)にあると言われています。イエスの十字架の死は、父への愛と従順のため、また私たちの救いのためでした。ミサの中でこの十字架の記念が行われるたびに、神の救いを思い起こし、パンの秘跡によって、キリストによって一つとなる信者の一致が表されています。


第4条 教会を聖化する聖霊
 イエスが天に帰って後、ペンテコステの日に聖霊が派遣されました。聖霊は教会と信者の中に住み、祈り、神の子であることを証明し、教会を真理に導き、一致させ、教え導き、新しくし……と、いろいろな働きをします。一つに集められた民=教会は、聖霊を受けることによって「上からの力」つまり自分に託された救いの働きを行うための力を受けるのです。
 このように教会は、父と子と聖霊の三位の愛の交わりと一致を生きるものなのです。


第5条 神の国
 福音書の中で、イエスが絶えず言っていた「神の国」と教会について見ます。前半では、神の国の到来である教会を説明し、後半では、神の国を完成する教会について、語っています。

イエスは言葉と業によって「神の国は近づいた」と人々に伝え、教会を始めました。教会も、このイエスの使命を継続して、イエスと「神の国」を人々に告げ知らせています。神の国は教会においてすでに始まっていますが、まだ完成していません。教会は神の国の完成を待ち望みながら、歩み続けているのです。


第6条 教会の像
教会はいろいろの表象で表現されますが、ここでは、特に新約聖書にみられる教会の姿を見ます。


 教会は「羊のさく」:
  教会は羊の群であり、キリストはよい牧者である。(ヨハネ10.1〜10)
 教会は「神の畑」:
  キリストは真のブドウの木、私たちはその枝。
  幹であるキリストから生命をいただく。(ヨハネ15.1〜5)
 教会は「神の建物」:
  教会はすみの親石となったキリストの上に建てられた。(1コリ3.9)
 教会は「キリストの花嫁」:
  キリストは花嫁である教会を愛し、契約によってご自分に結び合わせた。
                   (黙示録19.7、21.2、22.17)

第7条 キリストの神秘体である教会
 第6条の教会の表象よりも、はるかにすぐれた表象として「キリストの神秘体」を取り上げています。

 「キリストの神秘体」についての教えは、使徒パウロの考えや教父たちの著作の中でたびたび説かれていますが、近年の典礼や聖書の理解によって、「キリストの神秘体」の理解も深められてきました。


   第2段落からは、パウロの手紙の箇所を出しながら、
「キリストの神秘体」について説明しています。
 ・教会の神秘的な一致
 ・一つの体としての教会
 ・神秘体の頭であるキリスト
 ・神秘体の魂である聖霊
 ・キリストの充満からくる教会の尊厳

第8条 教会の神秘、人的要素
「唯一の仲介者キリストは、自分の聖なる教会、信仰・希望・愛の共同体を目に見える組織としてこの地上に設立し、これを絶え間なくささえ、この教会によって、すべての人に真理と恩恵を分け与える。」

 第7条までは、「教会の秘義」について述べてきましたが、第8条では、実際に「教会の秘義」がどのように現実の教会の中で実現しているかが書かれています。


  ・聖職位階制度によって組織された教会とキリストの神秘体
 ・目える集団と霊的共同体
 ・地上の教会と天上の教会
これらは別のものではなく、「人的要素と神的要素によって形成される複雑な一つの存在である」とあるように、神の恵みの力ですべてを行われるのではなく、人間の側からの協力を求めているのです。

 第2段落では、「唯一、聖、カトリック(普遍的)、使徒的」という教会の特徴が書かれています。この教会は、ペトロからはじまって、ペトロの後継者と司教たちによって治められてきました。

 「この(キリスト)教会は……カトリック教会のうちに存在する」と、一見すると不思議なことが書かれています。「目に見えるこのキリストの教会」と「カトリック教会」が同じであることをこのように表現しているのです。つまり、カトリック教会は地上におけるキリストの教会の実現であるということです。

「この組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされるが、それらは本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促すものである」

 これは、カトリック教会以外のキリスト教会(プロテスタント)との一致について言っています。カトリック以外の教会はカトリック的一致へと招かれています。神は、他の教会の中にも見られる聖化と真理を通して、人々に恵みを与え、救うことを認めています。この恵みはあらゆる民をカトリック的に、つまりおのおのに適した仕方で、一つに集める働きを持っており、この一致への動きを、キリスト信者の人間的な対立によって、妨げてはいけないのです。

 他のキリスト教との一致について、第2バチカン公会議は『エキュメニズムに関する教令』を発布し、敵対ではなく一致に向かって協力するようにと招いています。

 最後の段落は公会議の参加者の強い要望によって追加されたものです。キリストが貧しく生きられたように、教会も貧しく生きるものであると説いています。


 なぜ「貧しさ」を生きるのでしょうか。
 ・「貧しい人」 キリストを生きるため
 ・キリストと同じように、貧しい人に福音を伝えるため
 ・貧しい人の中にキリストを見る
教会は「聖」でありながら、実際には、弱い罪人の集まりです。教会は絶えず「清められ」「悔い改める」存在なのです。

結びは、終末へ向かって歩み続ける教会の姿を見ています。


教会論の変遷
 今回からは、第2章「神の民について」に入りましょう。

前回までに見た第1章は「教会の秘義について」と題して、制度としての教会ではなく、神によって設立された教会を描き出しています。第2章では、教会を構成する神の民、「父と子と聖霊との一致に基づいて集められた民」としての教会の説明が行われています。これは、教会論の変化です。現代カトリック神学における教会論は、「神の民」を中心とする説明に変わってきました。教会憲章も、他の公文書も、「神の民」としての教会の概念が基礎となっています。

 現在教会は、自分を「神の民」と見ていますが、長い歴史の中では、いくつかの変遷があります。第2章で語っている現代の教会論に入る前に、いままで教会は自分自身をどうとらえてきたか、つまり教会論についての変遷を簡単に見てみましょう。


(1)教父たちの時代
 古代教父たちは、好んで神の民という表現を使っていましたが、いつのまにか使われなくなりました。それはキリストに結ばれた新しい神の民と、旧約時代の血統によって選ばれた民とを区別するためだったようです。

※「教父」とは:
 古代教会の著述家たちのうち、教会が信仰の特別な証人と認める聖なる
 人物をさす。教父と認められる4つの主な特徴は、古代教会に属し、正
 統信仰を保ち、聖性がすぐれ、教会によって承認されていることである。
 ラテン教父とギリシャ教父に分けられる。
  ラテン(東方教会)教父はセビリヤの聖イシドルス(560-636)で終
 わり、ギリシャ(西方教会)教父は、ダマスコの聖ヨハネ(675-749)
 で終わったとされている。      (『カトリック小辞典より』)

(2)中世の時代
 スコラ学者たちは、教会を神の民という概念で取り扱っていません。歴史にあまり関心を示さなかった中世の神学者たちにとって、旧約の神の民と新約の神の民との関連性に注意を向けなかったようです。


(3)近代初期の時代
 この時代は位階制度を中心とした教会論だったので、宗教改革者たちは、民主主義の立場に立って神の民という教会の本性を説明しました。しかしこれは位階制度を否定するものだったので、カトリック神学者たちはこの考えに反動的な態度を示し、この姿勢が19世紀中頃まで続きます。


(4)19世紀後半からの時代
 教会の神秘的性格が取り上げられ、神の民という概念は薄くなっていきます。しかし、同時にキリストの神秘体としての教会という概念が再発見され、強調されました。民主主義思想が広がると同時に、個人主義思想も広がり、同時に神の民という概念が再発見され、深く研究されるようになりました。


(5)第2バチカン公会議前20年間
 1930年ごろから、プロテスタントに遅れをとっていたカトリック神学界でも聖書研究が盛んになり、新約聖書との関係で旧約聖書の価値が再発見されるようになりました。聖書の研究が盛んになってくるにつれ、教会論も大きく変わります。教会がイエス・キリストによって設立されたものという狭い考えを超え、神は永遠の計画によって、旧約時代にイスラエルをご自分に民として選び、すでに来るべきキリストの教会を準備していたという、神の救いの歴史に基づいた教会論をとるようになりました。


(6)第2バチカン公会議中
 教会は何かという問題と取り組んだ第2バチカン公会議中にも、度々修正が行われました。神の民の中には、洗礼を受けた者すべてが含まれます。「聖職者も信徒も区別なしに神に招かれた民である」というのが、新しい教会論の根本思想です。新しいといっても、これは古い教会論です。なぜって、聖書に基礎をおいた教会論だからです。それで「神の民について」という章が、聖職位階についての章の前に置かれることになりました。


第2章「神の民について」
 教会の秘義をどういう言葉で表現しようかと、公会議は考えました。第1章の6条と7条で、いろいろな表現を出し、「キリストの神秘体」による教会論を説明しています。しかし、公会議は「神の民」という表現が最も適切であると判断し、第2章へと続きます。 では内容に入りましょう。


●9条
 「神はイスラエル民族を自分の民と選んで、それと契約を結び、その民の歴史の中に自身と自分の意向とを表すことによって、またその民を自分のものとして聖化することによって、その民を徐々に教化した。しかし、これらすべてのことは、キリストのうちに結ばれる新しい完全な契約と、人となった神のことば自身によって伝えられる、より完全な啓示とを準備し表象するためであった。」

 この簡単な文章の中に、人類の救いという神の救済史が要約されています。神は、イスラエルの民が、他の民に比べてすぐれていたから選んだのではありません。イスラエルだけが特別でもないのです。地上のすべての民は、神に属していますが、実際には、神に属していることを知らない民もいます。認めようとしない民もあります。地上のすべての民に神を知らせる道具として、イスラエルは神に選ばれたのです。長い旧約の時代を通して、神はご自分の民を教え導いて来ました。しかし、それがすべてではありませんでした。旧約の時代は新約の時代の準備だったのです。

 すべては、キリストによって現実となるのでした。神は、ご自分の愛するひとり子・キリストをこの世に送り、キリストによって新しい契約を結びます。

ではこの「新しい神の民」とは、どのような民なのでしょうか?


(1)旅する教会:
 モーゼに率いられてエジプトを出た民が、乳と密の流れる約束の地をめざして、砂漠の中を迷いながら旅を続けます。民は、神を見失って誘惑に負けたりしますが、苦しみながらも約束に地に入ります。新しい神の民も、十字架を担いながら、永遠の都に向かって歩み続けます。指導者は、キリストとキリストの霊(聖霊)です。


(2)神に属する民:
 神によって結ばれ、神に導かれている民は、時代と民族を超えています。しかし、すべての人が同じ仕方で属しているわけではありません。カトリック信者、キリストを信じる人々、神の恵みに導かれている人々と、属し方が違うのです。


(3)神の民の普遍性:
 すべての人が神の民となるように招かれていますが、実際に神の民のして属しているのは極めて少数です。この小さな民は、神の民となるように招かれているすべての民の救いの道具とならなければなりません。まだ神を知らない人々に、知らせる……、ここに宣教の必要性があるのです。


(4)神の民の平等性:
 神の民の一人ひとりの中には聖霊が住んでいます。神の子として、品位と自由を備えています。役目はいろいろと違うでしょう。しかし、神の前にはみな平等です。

 第2バチカン公会議前までは、聖職者至上主義で、信徒の身分は低く(「平信徒(ひらしんと)」と呼ばれていたのも、この名残でしょう)、聖職者つまり司祭たちだけが特別な身分と考えられていました。しかし位階制度はあくまで地上の人間の制度として考えられたものですから、神から造られた人間としての尊厳は、みな平等なのです。共同体の中で、果たす役割が違うだけなのです。


●10条 神の民の司祭職
 この条で扱っている「司祭職」というのは、日頃「神父さま〜」と読んでいる「司祭」とは違います。祭服を着ている司祭は、「神の民の共通司祭職」と区別するため叙階の秘跡による司祭職、「職位的司祭」と言います。「神の民の共通司祭職」は信徒全員にに与えられているものです。共通しているのは、どちらもそれぞれの方法でキリストの司祭職に参与しているということです。

 キリストは父である神から、この世を救うために派遣されました。司祭、王(牧者)、預言者(教師)の任務をもって、この世に生まれました。そして今も、この3つの使命を果たしておられます。司祭職とは、神と民の間にあって、取りなす役目です。信徒の司祭職とは何なのでしょうか?

 私たちも、神を知らない、また祈ることを知らない人々のために、彼らに変わって祈ります。神に取りなしのお願いをします。あるときは、犠牲を捧げます。奉仕をします。神の民として、他の人々の救いの道具となる使命があるのです。

 第2バチカン公会議前に出された回勅『ミスティチ・コルポリス』(教皇ピオ12世、1943年)では、キリストのこの3つの任務を位階職にはあてはめていますが、民全体には適応していませんでした。

 第2バチカン公会議では、この3つの任務は、洗礼を受けた者すべてに与えられていると宣言しています。公会議以前でしたら、第2章には「司祭について」が来ていたことでしょう。しかし『教会憲章』では、まず神の民としての共通の任務があることが述べられ、それから役職に基づくそれぞれの使命が語られるのです。ここが今までとは違う、第2バチカン公会議の大切な考え方です。


●11条 秘跡と共通司祭職の行使
職位的司祭と神の民に共通司祭職とは、どう違うのでしょうか?

(1)段階だけでなく、本質において異なっています

 洗礼、堅信、叙階の秘跡を受けた者だけに、職位的司祭職が与えられます。ただし、助祭、司祭、司教の間には、段階的な差があるだけで、本質的な差はありません。司祭は、キリストの民とキリストの仲介者、代理人となります。

 すべての信徒は、洗礼によって、共通司祭職を受けます。職位的司祭職を授けられた者は、聖なる権能が与えられ、民を育成し、治めます。またキリストの代理者として、聖体の秘跡を執行し、民全体の代表として神に捧げるのです。

(2)しかし、相互に秩序づけられています

 職位的司祭職は共通司祭職と対立するものではありません。奉仕するためのものです。職位的司祭職が「神の民の奉仕」のためであるということは、教会憲章全体にわたって強調されています。

 神の民全体がもっている共通司祭職も、職位的司祭職のためです。職位的司祭職が執り行う秘跡を受け、感謝し、生活をあかしし、自己放棄、行動的な愛によって、この司祭職を行うのです。

(3)独自の方法で、キリストの唯一の司祭職に参与しています

 聖職的司祭はキリストの代理者として聖体の秘跡の犠牲を執り行い、それを民全体の名において神にささげるます。司祭職を持つ神の民は、「秘跡と徳を通じて」それを行います。秘跡を通じて行動に移すのです。

 11条の後半では、洗礼、聖体の他の、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻の秘跡について述べています。秘跡は神の恵みを与えるための単なる外的な儀式ではありません。神と人との出会いなのです。


第2章「神の民について」12条、13条
 では第2章の続きで、12条です。


●12条 神の民の預言職
 12条の冒頭に、「神の聖なる民は、キリストが果たした預言者としての任務にも参加する」と書いてあるように、教会は、司祭職の説明に続いて信徒の預言職について話します。

 キリストは、地上で生きていた間に、預言者つまり教師として、神の国について言葉と行いによって教えました。預言者の任務は、将来の出来事を予見し予告するだけでなく、時のしるしと歴史上の出来事を、神の救いの計画という立場から人々に教えます。キリストは、旧約の時代の預言者と同じように、人々に向かって改心、審判、罰、神の国、救いについて絶えず述べ伝えたということが、福音の各ページに記録されています。この預言者としての任務は、聖霊と結びついたものでした。洗礼を受けて、神の民の一員となった者は、信仰と愛の生活を通してキリストの証人となるよう招かれているのです。

 第2段落では、神の民の預言職の説明として、2種類のカリスマがあることを説明します。それは、新約の神の民全員の信仰の感覚(sensus fidei)という全員に与えられるカリスマと、「教会の刷新とその発展のために役立ついろいろの仕事と職務に適する者、またそれを引き受ける用意のある者」とあるように、一人ひとりに与えられるカリスマ(霊のたまもの)です。


●聖パウロの神学におけるカリスマ
 「カリスマ」という言葉を理解するために、パウロの手紙によく出ているカリスマ・霊のたまものについてみておきましょう。

 コリントの信徒への手紙1の12章を開いてください。「霊的な賜物」を説明した後、有名な「愛の賛歌」へと続く大切な箇所です。ここでパウロは、各地の集団の中でで起こった不思議な現象について記録していますが、ここからカリスマについての以下のような特徴が分かります。


(1)一つの霊
 「霊的な賜物については、次のことをぜひ知っておいてほしい」と前置きをしてから、次のように言っています。

 賜物(karismata)にはいろいろありますが、
         それをお与えになるのは同じ霊です。(4節)
 務め(diakonia)にはいろいろありますが、
         それをお与えになるのは同じ主です。(5節)
 働き(energemata)にはいろいろありますが、
         すべての場合すべてのことをなさるのは同じ神です。(6節)
 karismata、diakonia、energemataと表現は違いますが、同じことを言っているようです。  パウロはこの現象を「霊の働き」(energemata)と呼んでいます。つまり、これらは神の力とその霊によって起こるということを強調しているのです。では、「霊の働き」とは、具体的にどのような働きなのでしょうか?


(2)霊の働き
 続く12章の8〜11節には、さまざまな霊の働きが並べられています。

ある人には<霊>によって知恵の言葉、信仰、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、種々の異言を語る力、種々の異言を解釈する力が与えられています。


(3)全体の利益のため
「一人ひとりに霊に働きが現れるのは、全体の益となるためです」(7節)

カリスマは、教会内での地位や権力を獲得するためのものではありません。他者に奉仕し、教会全体の利益のために使用されるものです。また、カリスマの多様性は、秩序を乱すものであってはなりません。

『教会憲章』12条は、このパウロの考えを前提としています。教会を治める人は、霊を消すのではなく、教会の刷新と発展のためなら、霊の促しからくる提案や企画を喜んで受け入れ、反対に、教会の一致と平和を乱し、全体の益にならないようならば拒否するように……。12条はこのような教会の指導者への言葉で結ばれています。


●13条 唯一の神の民の普遍性
新しい契約による新しい神の民の指導者キリストによって導かれる教会は、一つの時代、一つの地域だけに限定されるものではありません。すべての地域に広げられる必要があります。しかし現実には、神の民の群はあまりにも少なく、世界に散在している小さな群にすぎません。キリストを信じない人々は多く、信じない人々は救われないのでしょうか?

  『教会憲章』は、この点を次にように考えています。
   「すべての人が神の新しい民に加わるように招かれている。」

 教会は、13条の冒頭で、全人類を救うために神が選んだ民に、一人の例外もなく招待されているという大原則を宣言しています。これは『教会憲章』2条の神の創造と結びつきます。神は人間性を一つのものとして創造されました。実際には離ればなれになっている人類を、新しい一致に呼び集めようとしていますが、どこに一致しようとしているのでしょうか? 神は人類を新しい一致の秘跡である教会に呼び集めようとしているのです。

 ここで注意しなくてはならないのは、普遍性と画一性を混同してはいけないということです。神が招こうとしている一致は、画一性にではありません。人間性は一つですが、世界には、それぞれの資質、習慣を持った数多くの国民がいます。普遍的な神の民は、多種多様な地上の民族から成り立っています。信仰上の一致は必要ですが、その一致が各地域、各民族が持つ種々の伝統を破壊してはならないのです。

 使徒言行録2章に書かれている聖霊降臨の出来事は、神の民の普遍性を現わすとともに多様性における一致も示しています。神は「心と霊の一致」は望みますが、人種、皮膚の色、言語の差、風俗習慣の違いを無視した画一性は望んではいません。この意味からも第2バチカン公会議が「典礼憲章」で、各国語の使用を典礼の分野で認めたことは大きな変革だったのです。(「典礼憲章」36条)

 ※第2バチカン公会議以前は、全世界の国々ががラテン語でミサを捧げていました。信徒はラテン語が分からなかったので、ミサの間ロザリオの祈りをしていたと聞いています。

 この多様性における一致という原則から、地方または部分教会(Ecclesialocalis)の自主性に関する神学が生まれたのです。ローマ中心の中央集権的な教会の姿から、多様性の中に一致を認める地方分権的教会の姿に変わったということは、第2バチカン公会議の大きな偉業と言えるでしょう。しかし、地域教会の合法性、教会の多様性は、ペトロの首位性(教皇座)を脅かすものではありません。ペトロの座は、この集団を主宰し、合法的な多様性を保護し、部分的なものが役立つように警戒します。

 さらに、これらの地域教会が、霊的な富、使徒的働き手、物質的援助によって協力し合うよう招いています。カトリック信者も、キリスト教を信じる者も、神の恵みによって救いに招かれている者も、みな普遍的な一致に招かれているのだという大前提をもう一度確認して13条を結んでいます。


第2章「神の民について」14条〜16条
 前回に戻りますが、13条の書き出しと結びを読んでみてください。

 13条の冒頭には、「すべての人が神の新しい民に加わるよう招かれている」と書かれています。また、結びには「すべての人がこの一致に招かれている。カトリック信者も、キリストを信ずる他の人々も、さらには、神の恩恵によって救いに招かれているすべての人々も、種々の方法によって、この一致に属し、あるいは秩序づけられている」と書いてあります。

 このように公会議は、「神の民」について、今までと違った新しい考えを示しました。「教会の外に救いはない」としていたそれまでの教会の姿と、まったく反対の姿勢です。この「神の民」についての理解が、第2バチカン公会議の大きな特徴の一つといってよいでしょう。

 14条〜16条では、神の民の種々の所属の仕方を説明しています。ここで「所属」という表現が出てきましたが、第2バチカン公会議の文書には、「属する」とか「合体する」「秩序づけられる」という表現が使われています。このような表現を使用することによって、目に見えるカトリック教会という組織共同体から出発した教会論ではなく、神とその救いの歴史という教会論が基礎となっていることがわかります。


●14条 カトリック信者
 まず目を向けるのは、カトリック信者です。この人々は、「教会に完全に合体している人々」です。つまり「教会の制度の全体と教会に備えられたすべての救いの手段を受け入れ、また、信仰宣言、秘跡、教会的統治および交わりのきずなによって、教皇と司教たちを通して教会を治めているキリストに、教会の見える組織の中で結ばれている人々」です。

 このような人々は、洗礼を通して、教会の一員となりました。しかし、「からだ」で属していても、「心」がとどまっていないなら、その人は救われないとも言っています。キリストからいただいた特別の恵みに対して、思いとことばによって答えないなら、救われるどころかきびしくさばかれるでしょう。

 洗礼は、生涯におよぶ神への信仰告白です。神の愛を知り、神の愛を受け入れ、洗礼を受け、神とともに生きようと宣言した人は、神からいただく恵みとともに期待も大きいのです。神から心が離れていくことは、神への裏切りとも言えるでしょう。

 「すべて多く与えられた者は、多く求められ、
       多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ 12.48)

 洗礼は受けていないが、教会に合体することを望んでいる「洗礼志願者」については、どうなのでしょうか。
洗礼を受けて神の愛に生きようと望み、「教会に合体したい」と意志表明している人は、洗礼は受けていなくても、その「望み」によって、教会に結ばれていると公会議は言っています。神は、この人々にも、愛と恵みを与えてくださいます。


●15条 キリスト信者
 洗礼を受けてキリスト信者となっている人々について述べています。つまり「分かれた兄弟たち」です。この中には、東方教会、西欧の諸教会、諸集団が含まれています。

 ご存じのように宗教改革の後、カトリックの信仰を全面的に認めない人々、または、ペトロの後継者である教皇の首位権を認めない人々が、カトリック教会から離れ、自分たちの教会をたてました。

 カトリック信者が「完全に」教会に合体しているのに対して、これらの人々の所属の仕方に対して、教会は「完全に」とは表現していません。違いもありますが、たくさんの共通点も持っています。


 ・聖書を信仰と生活の規範として大切にしている。
 ・誠実で熱心な宗教心を現している。
 ・全能の神と救い主である神の子キリストを、愛を持って信じている。
 ・洗礼によってしるしを受けてキリストと結ばれている。
 ・自分の教会や教会的共同体の中で、秘跡を認めている。

他の諸教会より共通点が多い東方教会との共通点は以下です。

 ・司教を持っている。
 ・聖体祭儀を行っている。
 ・神の母であるマリアへの信心を大切にしている。

カトリック教会は、東方教会に対して特別の親しさを感じています。
 これらの諸教会・諸団体を通してもキリストは救いをもたらされるでしょう。しかし、残念なことは、キリストが望んでおられた一致がないことです。カトリック教会は、一致を望み、そのために祈り、働くようにと信徒に勧めます。キリストによる一致の日を待ち望んで、エキュメニズム運動を大切にしたいですね。


●16条 福音をまだ受けなかった人々
 救い主であるキリストと出会っていない人々は、どのようにして救われるのでしょうか? 以前でしたら、彼らに「救いはない」と教会は表現していました。

聖書にも「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(マルコ 16.16)

と厳しい表現で書かれています。しかし、神はすべての人を創造されたのです。「普遍性」が神の民の特徴であり、すべての人が神の救いにあずかるように招かれているのはないでしょうか。

では、「福音をまだ受けなかった人々」とはどのような人々なのでしょうか?


ユダヤ教
神は旧約の時代において、まず彼らと契約を結ばれました。キリストは、イスラエルの民族から生まれました。しかし、彼らは自分たちの間から生まれた救い主を認めず、2000年を経た今もなお、たくさんのユダヤ人がキリストを認めず、キリストの教会が唯一の救いの道であることを認めていません。
彼らに対して教会は、「キリストを拒否し教会を認めないが、預言に忠実であるイスラエルは、救いの計画の中で、今も特別の位置を占めている」としています。


イスラム教(回教)
教会は彼らを「アブラハムの信仰を保っていると主張する者」と表現しました。彼らは、創造主を認め、アブラハムの信仰を保ち、最後の日に人々を審判する唯一のあわれみ深い神を礼拝しています。
教会は、彼らと論争をするのではなく、共通の立場で対話しようとしています。今も、イスラム教はキリストもその教会も認めていませんが、神の永遠の計画は実現するという教会の姿勢が文章に現れています。


諸宗教
教会は、彼らを「影と像のうちに未知の神を探し求めている人々」と表現しています。この中に、仏教、神道、儒教、道教、その他のあらゆる宗教が入っています。ユダヤ教とイスラム教は、創造主である唯一の神を認めていますが、他の宗教は、唯一の神ではありません。「影と像の中に神を認めようとしている」のです。

彼らは救われるのでしょうか?

教会は「この人々にとって、神は遠い存在ではない」と答えています。

彼らは、「まだキリストの福音と教会に出会っていないので神を知らないが、誠実な心を持って神を探し求め、自分の良心を規範として神の意志を生きてる人々」なのです。神は、彼らの救いに対して必要な助けを与えてくださいます。

16条では、今まで教会が彼らに救いはないと言っていた「異教徒」にも、神の普遍的救済の中にあることを強調しています。このことから、『教会憲章』の底に流れている姿勢は、驚くほどの楽観主義と言えるでしょう。

最後に、教会は現代の人々が神なしに生きていること、無神論が広がりつつあることを指摘しています。

 「自分たちの考えの中にむなしく迷い、神の真理を偽りと置き換えて、創造主よりは、被造物に仕えたり、あるいは、神なしにこの世に生きてそして死んでゆく」彼らに対し、すべての人の救いを願う教会は、

 「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16.15b)

 というキリストの命令を忘れることなく、熱心に宣教活動をするよう励ましています。


第2章「神の民について」17条

●17条 宣教の使命
 ここでは、キリストから、信じる者すべてに与えられた宣教の使命について語られています。

「全世界に行って、すべての造られたものに、福音を宣べつたえなさい」

 これは、イエス・キリストの命令です。

しかし、『教会憲章』で表明された「神の民」の理解によって、宣教への熱意が次第になくなってきてしまったのです。

前回見たように『教会憲章』では、他の宗教を評価し、全人類におよぶ神の救いの計画の普遍性を強調し、「神の民」の理解が昔とは違ってきました。「洗礼を受けていなくても神はすべての人を救ってくださるのなら、神を宣べ伝える(福音宣教)意味がないのではないか……」というわけです。

 このように考えてはいけないようです。他の人々の信仰を尊重することと、宣教は不要なのだということを結びつけてはいけません。むしろ、神の救いの計画の普遍性を理解すればするほど、宣教の必要性を強く感じる必要があるのです。



【宣教の意義】

 『教会憲章』の第一章の冒頭を思い出してください。「キリストの光をもってすべての人を照らすこと」、これがキリストの教会の任務です。また、「全人類の一致の道具」となることです。日々、完成に向かって進む教会にすべての人を呼び集めること、これが宣教の意義です。神は、直接人に呼びかけてご自分を示すという方法をとらず、人間を通して神に出会うという方法を選ばれました。思い出してください。私が神を知るようになったことには、かならず、だれか人がかかわっているでしょう。人は、人を通して神と出会うのです。
    信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。
    聞いたことのない方を、どうして信じられよう。
    また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
                         (ローマ10.14)


【宣教活動と各国固有の文化】

 福音を宣べ伝えるとき、それぞれの国民が長い歴史をとおして培ってきた宗教的・道徳的伝統を破壊してはいけません。その国の歴史、社会状況を無視した宣教方法ではいけないのです。今の時代、その国の文化・伝統・習慣・価値観の中で、もっとも効果的な宣教の方法は何か……。それを絶えず考え、検討していかなくてはならないのです。

 日本の伝統的なよいものを尊重し、その中にキリスト教的な精神を発見し、またキリスト教と結びながら、日本の社会の価値観・メンタリティーをキリスト教的な視点から見ていく、福音宣教とはそのような小さな歩みかもしれません。

 その国の歴史・文化・伝統などを大切にしていく……。この精神は、『現代世界憲章』でも下記のように明記されています。

 教会はあらゆる時代と、あらゆる地域のすべての民に派遣されたものであるから、いかなる民族または国家にも、いかなる特殊の風俗にも、新旧のいかなる習慣にも、排他的、不解消的に結びつけられてはいけない。(『現代世界憲章』58条)

 自分たちの知っているすばらしい神を多くの人に知らせたい。これは、神を知った者は、だれでも、どの宗教でも思うものです。しかし、その思いの強さのあまり、相手が持っているものを無視し、自分たちのものを押しつけるならば、そこに神は存在しません。

 では、教会はこのことを上手にしてきたか……と問うと、「はい」とは言い切れない現実があります。教会は過去において悲しい経験をしています。キリスト教は、植民地時代に多くの国に広がりました。それは、ヨーロッパの少数の国が、他の数多くの国に行った植民地政策と裏表の状態での広がりで、その国固有の文化を尊重するという精神で行ったとは言いきれません。また、第2バチカン公会議まで、その国の国語が尊重されず、全世界が統一されたラテン語によるミサを行ったという事実も、上記の精神に添ったものではなかったと言えます。

 この世界は神によって造られています。神に創造された人間は、神にたどり着くまで、満たされることがありません。その神と出会うために、宣教活動=神を知らせるということが必要なのです。神と出会ったときこそ、人は満足するのです。


第3章「教会の聖職位階制度、特に司教職について」18〜21条


第3章は、4つの部分から構成されています。       序文            18条   第1部 司教の起源、特にその秘跡性 19〜21条   第2部 司教の団体性        22〜23条   第3部 司教の諸任務        24〜27条   第4部 司祭および助祭       28〜29条
 2章で見たように、キリストの教会は神の民といわれ、役務者や一般の信徒の区別なく、平等に属しています。しかし、主キリストは、神の民を牧し、また常に発展させるため、自分の教会の中に、からだ全体の善を目ざす種々の役務を制定しました。それは、聖なる役務者が、神の民に属するすべての人が同一の目的に向かって自由に秩序正しく協力しながら、救いに到達するように、自分の兄弟たちのために奉仕するためです。(18条)

 私たちが、日頃、教会で接しているのは司祭たちですが、どうしてここでは司教のことばかりが取り上げられているのだろう……と疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。司教は使徒の後継者であり、教会を牧しているのは司教たちなのです。それぞれの司教区は、裁治権者である司教に任せられています。しかし地域が広く、教会の数も多いので、司教が実際に教会や人々に関わることは非常に困難です。そこで、司教は司祭に権威の一部を委譲し、彼らにそれぞれの教会を任せているのです。

 日本は16の司教区にわかれており、それぞれに地区を導き治める司教がいます。日本という国に、カトリック教会の代表が一人いるというかたちではなく、16の地域の司教たちが集まって司教団をつくり、全員で日本の教会を見ているのです。

 バチカンにいる教皇は、またローマの一司教でもあります。長い歴史の中で、ローマの司教が全世界の司教団の頭となり、(キリストがご自分の教会を任せた)ペトロの後継者と呼ばれるようになりました。



【3つの根本原理】

 教会憲章は、第3章で、司教職に関して次の3つの根本原理を明らかにしました。ちょっと、難しいことばですが、書きます。

(1)司教聖別は、司祭職の充満を意味する。(21条)
(2)司教聖別は、聖化の任務とともに、教える任務と治める任務をも授けられる。
   しかし、教える任務と治める任務はその本性から、司教団体のかしらならび
   にその構成員たちとの位階的交わりの中でしか行使できない。」(21条)
(3)教職と司牧統治職において使徒団体を相続し、むしろ使徒団がその中に存
   続している司教団は、その頭であるローマ教皇とともに、そしてけっし
   てこの頭なしにではなく、全教会の上に最高、完全な権能を有する主体
   である。ただし、この権能は、ローマ教皇が同意するときだけしか行使でき
   ない。」(22条)

 これは、「カトリック教理」つまり「信仰の教え」として宣言されました。

●18〜20条
18条では、教会位階について、一般的に述べられています。

19条では、イエスが12人を選んで使徒の団体を作り、その中から頭としてペトロを選んだ……という現在の教会の位階制度の源泉からその使命までが簡潔にまとめられています。

 20条では、キリストから使徒に与えられた使命が世の終わりまで続くものであることと、司教職の任務について述べられており、現代教会においては、司教たちが使徒たちの後継者であることが語られています。


●21条
 21条では、キリストとの関係を語りながら、司教の秘跡性を説明しています。ここで、司教聖別の秘跡にとどまってみましょう。

 公会議は、教会の牧者として司教たちが神の制定によって使徒たちの後継者であることを肯定し、彼らに聞く者はキリストに聞き、彼らをさげすむ者はキリストをさげすむ者であると教えています。


  司教の任務は、・すべての国民に神の言葉をのべ、
        ・信ずる者に秘跡を授け、
        ・新しい成員を自分の体に合体させ、
        ・かれらを永遠の幸福に導き、方向づけるです。
 こうした任務を果たすためには、聖霊の力強い働きが必要です。そして、自分たちの仲間である司教や、自分たちを助けてくれる司祭たちにも、この聖霊を求める按手によって、同じ使命を伝えていくのです。

 「司教聖別は、司祭職の充満を意味する」という言葉は、司祭が中心なのではなく、司祭は司教たちの協力者であり、司教こそが司祭職の充ち満ちるものであり、「司教聖別は叙階の最高の階級である」と宣言しているのです。「司教が最高の司祭職である」ということは、古い時代の『ヒッポリトスの使徒伝承』ですでに言われています。

 司教聖別によって、聖化、教える、治めるという3つの任務がまかせられます。 「教え、治める任務はその本性から、司教団体の頭ならびにその構成員たちとの位階的交わりの中でしか行使できない」と書かれています。これはどういう意味なのでしょうか。

 キリストの教会は、離散している神の子らを一致に導くというキリストが始められた業(わざ)を継承するものです。この一致は牧者たちの間でまず示されなくてはなりません。秘跡の一致による司教職の一致だけでは足りないのです。叙階の秘跡で受ける恵みや権能も、教会の一致を確立し、維持し、その共同の使命を達成しなくてはなりません。ですから、これらの権能を行うことは、司教職のうちに継承されている使徒たちの団体の見える一致の中においておこなわれなければならないのです。心と感情の一致だけでは足りません。位階的な交わり、つまり、司教団の中での構成員の調和と、ペトロの後継者に司教団の他の構成員たちが従うことが必要なのです。

 言うまでもないことですが、司教聖別によって与えられた権能は、キリストが形造った教会組織体から離れて考えることはできません。



【霊印 character】

 司教叙階は、司式司教の按手と叙階の言葉によって、司教になります。司教になれる人は、司祭だけではなく、長い歴史の中では、信徒が洗礼の後すぐ司教に叙階されていますし、多くの助祭たちが、司祭職への叙階なしに司教に叙階されたこともあります。

 一度司教に叙階されたら、死ぬまで司教であり、その人が教会から離れたり、また解職になっても、叙階の秘跡は消えません。 神学者タンケレーは、「司祭的霊印は、霊魂に刻印される霊的で、また不思議な『しるし』で、ある聖なることを執行するための能動的権能を与える」と言っています。


第3章「教会の聖職位階制度、特に司教職について」22〜29条
 前回は、ちょっと難しかったですね。「秘跡性」ということばは簡単には説明できないし、また理解できないので、説明の力不足を感じます。しかし、気をとりなおして、とにかく『教会憲章』読破をめざして、先に進みましょう。 今回は、ちょっと具体的になります。いわば「司教のお仕事」です。


●22条  司教団
 『教会憲章』は、まず、使徒団と司教団、ペトロと教皇とを比較して語ります。ペトロは使徒たちの頭でしたが、12使徒の一人でした。それと同様に、ペトロの後継者であるローマ教皇は、使徒の後継者である司教たちと司教団を作ります。彼らは、一致と愛と平和のきずなで結ばれています。

 頭である教皇が司教団と違うのは、教皇は、全教会に対して、完全、最高、普遍の権能を持っていることです。教皇は、ある時は「教皇」一人の名で、またあるときは、他の司教と一致して「司教団」の名で、ことを決定していきます。

 ペトロの後継者と一致している司教団もまた、全教会に対して最高完全な権能を持っています。しかし、教皇の同意なしにその最高の権能を使うことはできせん。

 「いったい、どっち?」わかったようなわからないような教皇と司教団の権威の関係ですね。全教会に対しての最高の主権には、3つの説があります。


1. キリストの代理者であるローマ教皇のみが有する。
2. 頭であるローマ教皇と一致する司教団が有する。
3. 教会の最高の権威は、不完全に2つに分けられる。
 第2バチカン公会議は、この結論は出しませんでした。
 教会の統治機構ほど、複雑なものはないと言われているそうですから、「理解できなくて当然!」としておきましょう。


●23条  司教団の中での関係
23条は、頭との関係ではなく、司教団の中の関係について、4つの観点からとらえて います。

1.司教は、普遍教会と地域教会の一致を代表している。
2.司教は、普遍教会の共通善に貢献する。(協力)
3.それは、特に宣教活動においてそうである。
4.いろいろの教会は、キリストの唯一にして分けることができない共同体の多
様性を現している。

※普遍教会:一つひとつの地域にある教会ではなく、
        カトリック教会としての大きなまとまりとしての教会

●24〜27条  司教の任務
 24条は、2つの部分から成っています。前半は、地の果てまでイエスの証人となることと、民への奉仕という司教の2つの大きな使命が、聖霊によって与えられたということを聖書に基づいて説明しています。

後半は、司教の任命の方法についてです。

 25条〜27条は、教職、聖化、統治職という司教の3つの「職」(役職=ministerium)についてです。「3つ」というよりも「三重」と言ったほうがいいでしょう。これらは互いに関係しあっていて、切り離すことはできません。


(1)教 職  25条
 司教は、自分にゆだねられた民に、生活の中で生きる信仰を説き、信仰を実り豊かなものとし、誤った考えを注意深く退けるための「師」です。信徒は、自分たちの司教が信仰と道徳に関して教えることを敬虔に受け入れます。ローマ教皇の教え、宣言も従順に受け入れなくてはなりません。

 最後の段落は、不謬性についてです。まず教皇の不謬性について述べています。

 ローマ教皇がすべてのキリスト信者の最高の牧者また師として、信仰と道徳についての教義を決定的に宣言するとき、間違いがありません。また、世界に散在している司教たちが、ペトロの後継者(ローマ教皇)とともに最高の教職を行うとき、司教団にも不謬性があります、つまり間違いがありません。

 これらの決定に対して、信者は、一致して従わなくてはいけません。


(2)聖 化  26条
 叙階の秘跡が満ちている司教は、その聖性(恵み)を他に伝える任務があります。その第一は「聖体祭儀」ミサです。司教は、聖体祭儀が正しく捧げられるよう、導かなくてはいけません。同じように、秘跡も正しく行われるよう導きます。

 また、信者のために祈り、働きながら、いろいろな方法で民に神の恵みを注ぎかけます。ことばを通して、救いのために必要な神の力を信者に伝え、秘跡を通して聖化します。こうして司教は、民が永遠の生命に生きるように導いていくのです。


(3)統治職 27条
 司教はキリストの代理者および使者として、自分のゆだねられた地域の教会を統治していきます。それは人々の上に立つ権威者として治めるのではなく、模範と助言によって、イエスと同じく仕える者(奉仕=diakonia)の姿勢で、自分にまかせられた民を導くのです。司教には、民の日常への配慮がゆだねられています。司教の模範の姿は、

羊のために命を捧げるために来た、よい牧者であるキリストです。
                     (ヨハネ 10.11)

司教には、民の救いへの責任があります。信者だけでなく、まだ一つになっていない民への配慮も必要です。


●28条  司祭職

『教会憲章』では、司祭を5つの観点から考えています。 ・司祭とキリスト ・司祭と司教 ・司祭間の相互関係 ・司祭とキリスト信者 ・世界における司祭団  なかでも、司祭とキリストとの関係が重要視されています。
 キリストは、ご自分の使命に参与するものとして司教たちを選びましたが、司教はキリストからゆだねられた任務を、さらに他の者にゆだねています。その一つに「司祭職」があります。この意味から司祭は司教に従うという関係にあります。しかし、聖体祭儀をささげることにおいて、両者の優劣はありません。

 司祭の模範は、もちろん最高の司祭であるキリストです。司祭は、キリストの任務に参与してます。「宣教」「司牧」「祭儀を指導する」という3つの任務です。さらに、秘跡を授け、祈り、模範とならなくてはいけません。

 司祭は、司教による叙階の秘跡によって、消すことのできない神からの恵みである「霊のしるし(character)」を受けます。このしるしは、たとえ司祭をやめるようなことになっても、生涯消えることはありません。実際に司祭の務めや仕事はしなくても、生涯その人は「司祭」なのです。

 司祭の使命は、司教の賢明な協力者、助手、道具となることです。司祭は司教の権威の下で、司教の名において、自分にゆだねられた民の一部を聖化し、治めます。

 司祭には、修道司祭(それぞれの修道会に属している)と教区司祭がいますが、両者とも同じ司祭職で、司教団に結ばれており、全教会のために奉仕します。司祭たちは、互いに協力して司教を助けます。

 司祭は、信者への奉仕だけでなく、まだキリストを知らない人々への宣教や、信仰を守っていない人々への力となるように招かれています。
 また、世界の平和と調和のために、人類が一つの家族となるよう先頭に立つようにと、『教会憲章』は司祭たちに呼びかけています。


●29条  助祭職
 助祭は、司祭の下で、司祭職を助けるためのものではありません。奉仕のために司教から按手を受けます。司教と司祭団との交わりの中で、典礼とことばと愛の奉仕において、民に仕えるのが使命です。適任と認められれば、既婚者も助祭になれます。しかし、独身の状態で助祭になった者は、その独身性を守らなくてはいけません。

「司教のお仕事」ならびに「司祭のお仕事」、少しは理解できましたでしょうか?


第4章「信徒について」30〜33条
 第4章は、信徒という身分について考えています。第2章で学んだように、第2バチカン公会議は、教会を「神の民」としています。第4章の「信徒について」もその流れの上にあり、信徒についてのこの新しい考えは、第2バチカン公会議の大きな特徴の一つとしてあげられます。

 それまでの教会は、個人の救い、個別的方法による「救い」を問題にしてきました。しかしこの『教会憲章』では、キリスト教の本質的な性格である、共同体性に眼を向けています。このことは、私たちは20世紀に入って、今までよりも更に深くキリスト教を理解したということになります。


●第4章の持つ神学的意味

 (1)信徒について、神学的に考え、信徒を教会的に理解するようになった。
 (2)信徒の「普遍的司祭職」または「共通司祭職」というものが考えられている。
 (3)信徒のあるべき姿、つまり信徒の本質と属性が考えられている。
 第2バチカン公会議までは、聖職者が尊ばれ、信徒は低く見られていました。この第4章によって、キリスト者である信徒に、教義における最高の聖別が与えられました。では、各項目を見ていきましょう。


●30条 序文
 「神の民」について言われたことはすべて、信徒、修道者、聖職者に平等に向けられています。信徒は、この世のただ中でキリスト教を生きていくという使命に召されています。教会が使命として持っている福音をすべての人に述べ伝えるということは、キリストを信じるすべての人の役割であって、聖職者だけのものではありません。違うところは、牧者(司教、司祭)には、すべての信徒が一致してこの働きをしていくようにと、見守る務めがあるのです。


●31条 信徒の定義
31条では、信徒の定義と特質が語られています。

信徒とは、

(1)叙階の秘跡を受けた者、教会の中で認められた修道身分に属する者意外の、
   すべてのキリスト者
(2)洗礼を受けたキリスト者
   それによって神の民のメンバーとなり、
   自分たちの身分においてキリストの司祭職・預言職・王職に参与する者
   自分の本文に応じて、キリストを信じる民全体の使命を
   果たしていくキリスト者
 信徒の特性は、「世に在る」といるということです。信徒は世間の仕事に携わり、家庭生活を営み、社会の一般的生活条件の中で生活していきます。世の中で務めを果たしながら、福音の精神に導かれるのです。自分の生活の証しによって、周りの人々に自分のキリスト教の信仰と希望と愛の輝きを表わします。まさに、イエスご自身がなさった生き方です。自分の生活を通してこの世を照らし、世を神に秩序づけていくことが、信徒の固有の召命です。


●32条 神の民の成員である信徒の尊厳
 32条は、聖パウロの手紙文を引用しながら、信徒の尊厳、平等性、多様性、兄弟性について語ります。

 教会が普遍性(catholicitas)であるということは、多様性(varietas)でもあるということです。神の民はいろいろな人々の集まりで、そこには多様性があります。しかし、同じキリストに結ばれているという信仰においては一つなのです。一人ひとりは異なった肢体ですが、同じ一つのキリストの体を形成しています。

 信徒の間には、キリストの体である教会において、民族、国家、社会的条件、性などによる差別・不平等というものはありません。神の子としてみな平等なのです。しかし、そこには多様性も存在します。教師、秘義の分配者、牧者など、人々のためのいろいろな働きの多様性です。

 キリストは人間として地上に来ることによって、人類の兄弟となってくださいました。私たちはキリストを兄弟として所有しています。そして、キリストにおいて私たちもみな兄弟なのです。教会憲章は、このキリストのおける兄弟性に深く注目しています。


●33条 信徒の使徒職
ここで、初めて信徒の使徒職についての充実した定義が出ました。

「信徒の使徒職は、教会の救霊活動そのものへの参与であり、
すべての人は洗礼と堅信を通して主自身からこの使徒職に任命される。」
 「初めて」と書きましたが、信徒の使徒職自体は、第2バチカン公会議以前からありました。いえ、キリストの時代から始まっていました。しかし、教会の公式の教えとして、はっきりと定義されたのは初めてなのです。

 信徒の使徒職は、信徒の本質に関わることで、「カトリック・アクション」とは別のことです。教会の救霊活動そのものに参与するということです。これは、教会の存在理由に関わることです。「カトリック・アクション」は、この本質から派生したものです。

 さて、「位階制度」(第3章)と信徒を区別することは何でしょうか?

「信徒によらなければ教会が地の塩となることができない場所と環境において、教会を存続させ活動的なものとすることが、信徒に与えられた使命である。」

修道者や聖職者ではなく、信徒だけに与えられている場=家庭・社会という環境の中で活動するということが違いです。この環境の中で、信徒は「地の塩」としてキリストの証人となって、福音を生きるのです。

信徒の働きとして、この他に、聖職位階の使徒職への協力があります。初代教会の時代に、聖パウロを助けた男女たちがいました。さらに、霊的な目的のために教会的な職務に、聖職位階から採用されることもあります。


第4章「信徒について」34〜38条
 キリストが行われた救いの働きには、司祭としての働き、王としての働き、預言者としての働きがあります。洗礼を受けた人は、キリストの使命に与っています。今回は、その3つの働き、信徒の司祭職・王職・預言職についてです。


●34条 信徒の司祭職
「えっ?」と思われるでしょう。司教や司祭が「司祭職」をするのではない ですか? それなのに、なぜ、信徒の司祭職と言うのか……???

 司教や司祭の司祭職は、秘跡的司祭職または位階的司祭職と呼ばれ、キリストの司祭職は、使徒とその後継者によって行われます。(第3章参照) これに対し信徒の司祭職は、霊的司祭職または共通司祭職と呼ばれます。キリストの生命に与る人は、キリストの使命にも与ります。実際に司教や司祭たちのように、祭服を来て、典礼や秘跡を行うのではありませんが、信徒も、神が賛美され、人が救われるように霊的な礼拝を行うのです。そのために、キリストの霊によって、キリストの司祭職の一部が信徒に与えられます。

 実際には、洗礼のときのキリストへの奉献と、堅信のとき聖霊による塗油によって、人は聖別されキリストの司祭職に与る者となります。仕事、家庭生活、祈り、日々の労苦、身体の休養、辛苦を耐え忍ぶという信徒の毎日の生活の中で営まれる事柄は、イエス・キリストを通して神へ捧げられる霊的犠牲となり、毎回ミサの中で行われるイエス・キリストの奉献に合わせて、神に捧げられます。キリストの恵みによって生きることが、キリストにおいて生きるということでもあるのです。

 信徒は、このような生き方をすることによって、この世を清いもの、聖なる もの(=世の聖化)にしていきます。これが信徒の司祭職と言われるものです。


●35条 信徒の預言職
 では、次に預言職を見てみましょう。キリストは預言者としてどのようになさったのでしょうか?

 キリストは「生活のあかしとことばの力」をもって、父である神の国について人々に告げられました。信徒も、自分の生活の感覚(sensus fidei)と言葉の恵み(gratia verbi)よって、日々の家庭および社会生活のうちに福音の力を輝きわたらせるように求められています。生活の場で、神の国が持つ力と希望、キリストへの信仰をあかし、告げていくこと、これが信徒の預言職です。

 信徒は、熱心に秘跡にあずかり、自分の信仰を増し、毎日の生活において、キリストへの信仰をあかししながら、地上での神の国の発展に協力します。そのためには、神から示された真理を理解し深めるための勉強と、英知の恵みを祈り求める努力が必要です。

 ヨハネとマリアとイエスを「聖家族」と呼ぶように、キリスト教では「家庭」を大切な一つの場としてます。ナザレのこの「聖家族」は、すべてのキリスト教家庭の模範です。キリストがいらっしゃたあの家庭のように、キリスト者の家庭も、「地の塩」として罪を排除し、「世の光」として真理を求めている人々を照らす役目をもっています。

 最後の段落で、教会は聖職者のいない場合、または迫害にあっている場合における信徒の役割について書いています。このような特殊、または緊急な状況においてでも、キリストの愛の証人としての行いが求められ、聖職者がいない場合、ある信徒はその一部を補う働きをする必要が出てきます。どのような状況下にあっても、すべての信徒は、キリストの国が広められるよう協力しなければなりません。

 洗礼を受けたらキリスト教の勉強は終わり……というわけではありません。そこからが次の出発です。私事ですが、洗礼を受ける前には分からなかったことが、洗礼の後に理解できるようになったということがたくさんありました。洗礼の恵みとしかいいようがありません。信者としての信仰生活とともに、聖書のこと、教会のこと、神のこと、人間のこと……など、今まで知らなかった世界が、ますます奥深く広がっていきます。理解する自分自身の器も大きくなっていくのでしょう。洗礼を受けたころよりも、もっとたくさんのことが量的にも質的にも理解できるようになります。洗礼を受けた後も、聖書やキリスト教の勉強、セミナーなどに参加することによって、さらに信仰を広くしてください。「ぜんぜん勉強してないわ!」「セミナーなんて行く時間がない!」という方! 今は、理解しやすい本もたくさん出ていていて、自分でも勉強できますから、ぜひ、ご自分の信仰に栄養を与え、成長させてあげてください。


●36条 信徒の王職
 「私が王ですか?」 そんな言葉が聞こえてきそうですね。そうなんです。王なのです。しかし、普通に考えられる「王」と、キリストが求めている「王」の姿は少し違います。

 「キリストは我々に模範を示し、父なる神の意志に最後まで従われ、死に至るまで従う者となった。それゆえ、父なる神はキリストを高め、すべてのものの上に支配する者となし、すべてのものはキリストの前にひざをかがめる」とフィリピ書(2.8〜9参照)

にあるように、

神がすべてにおいてすべてとなるために、一切のものはキリストに従うのです。(コリント1 15.27〜28参照)

これが完全に実現されるときが来ます。ちょっと難しいですが、これが、王であるキリストの姿です。

 「完全に実現されるとき」とは、世の終わりの時です。世の終わり、つまり「終末」は、まだ来ていません。キリストが来て完成してくださるまで、この完成への歩みは、キリストを信じる信者に科せられています。それは、権威を持って支配するという王の姿としてではなく、自分の悪に打ち勝って王であるキリストに仕え、従うという姿でです。つまり、人々うちでキリストに仕える謙虚さと、忍耐による奉仕です。キリストの支配は、目に見えるかたちではありません。一人ひとりの心が、キリストのように父である神を愛し、神が造られた人を大切にし愛するようになることです。そのようなキリストの支配は、時代と国境を越えて人々の心の中に及んでいきます。「真理と生命の王国」「正義と愛と平和の国」です。

 キリスト教的な世界観では、神は一切のものの根源であり、と同時に一切のものの終局の目的です。神はα(アルファ)でありω(オメガ)であると言われるゆえんです。

 人間の調和ある進歩、この世での罪と悪の戦い。社会的な悪をゆるし生みだすような社会を改め、正義が行われるよう努力をすることは信徒の務めです。

 最後に、教会に属する者としての権利と義務、社会の構成員としての権利と義務とを、注意深く区別することを学ぶよう呼びかけています。ここには、2つの大きな誤りがあります。

 一つの誤りは、行きすぎた調和論です。教会=社会、社会=教会という見方です。この考えを教会の側からすると、国家・社会は教会の一部となり、反対に国家・社会の側からすると、教会は国家・社会の一部となり、それに奉仕するものとなるからです。長い西欧の歴史が、この点を語っています。教会と社会は、同一化できません。社会は人間を構成員としてこの世の事柄にかかわるのに対し、教会は神を起源として、この世にありながら、この世のものではないからです。

 もう一つは反対に、行きすぎた区別論です。教会と社会を完全に区別する二元論の思想です。この立場に立つと両者はまったく異なった別の世界となり、独立的存在となります。教会の超越的な使命を考えると、この立場も認めることができません。『教会憲章』は、両者の間に調和を保つよう呼びかけています。教会と社会は重なり、信者は教会に属しながら社会に属し、社会に属しながら教会に属します。区別と調和のバランスって、難しいですね。

 キリストの王国は、信徒を通して広がっていく。一言でいえば、これが信徒のキリストの王職への参与です。


●37条 教会位階との関係
 信徒は、すべてのキリスト者と同様に、聖職にある牧者から教会の種々の霊的善、特に神のことばと秘跡の助けを豊かに受ける権利を持っています。当り前といえば当り前ですね。しかし、この聖職者から秘跡を受ける信徒の権利というのは、キリストによって定められたのものです。キリストは神の言葉を宣べ伝え、秘跡を与えるために聖職者である牧者を制定したからです。信徒はまず受ける権利を与えられ、これによって派出する権利が出てくるのです。

 信徒は、自分の必要と希望を、キリストにおける兄弟にふさわしい自由と信頼とをもって、牧者に表わすことができます。その際、聖職者に対する尊敬と愛をもって行います。論争のためではなく、「教会の建設」のためでなければなりません。

 信徒からの表明を受ける方の牧者は、教会の中における信徒の尊厳と責任を認める必要があります。信徒からの賢明な助言を喜んで受け入れ、教会の奉仕のために信頼をもって信徒らに任務を委ねます。信徒の自発性が大切にされるように計らわなくてはいけません。

 教会憲章は、信徒と牧者との関係を「親しい交わり」と呼んでいます。キリスト教の本質は交わり(communio)であると言えます。父と子と聖霊の三位一体の交わりは、交わりの本質を教えてくれます。信徒と牧者の協力によって、教会は生ける体であえることを明らかにしていくのです。


●38条 結び
 「信徒は、一人ひとりが世に対してイエスの復活と生命の証人であり、生きた神のしるしでなければならない」と言っています。ここで注意しなくてはならないのは、証人であり、しるしに<なる>のではなく、そういう<存在である>と言っている点です。つまり、信徒は洗礼と堅信によって、生ける神のしるしとして、すでにこの社会に存在しているのです。これが、キリスト者である信徒の本質です。

※<信徒の使命>に関する書籍として、
・『信徒使徒職に関する教令』(『第2バチカン公会議公文書全集』サンパウロ)
・『信徒の召命と使命』(カトリック中央協議会)
・『信徒の時代』(新生社)
・『信徒を中心とした教会』(女子パウロ会)があります。
『教会憲章』とあわせてお読みください。

第5章 教会における信徒の普遍的召命について
 5章と6章は、密接な関係があり、最初の草案の段階では一つにまとめられていたそうです。司祭、修道者、そして信徒という教会法の3つの階層から成り立っている中世の考えの教会像から、秘跡としての教会像へと変わっていることが、ここのしょうでも表現されています。


●39条 (序文)
 すべての人は、聖性へと召されています。しかし、聖性は、常に神からの無償の行為であり、人間の努力によって生ずるものではありません。5章においては、教会の聖性がすべて取り扱われるのではなく、この神の計画が行われるためには、人間の側からの自由な応答が求められるということだけが、中心になっています。


●40条 「すべての人が聖性へ招かれている」

   ここから本論が始まります。
 ポイントは、
  ・あらゆる完徳の、神なる師であり、模範であるキリスト
  ・聖性の創始者・完成者であり、弟子たちが、どのような
   生活条件のもとにあっても、
   自分に従うようにと呼びかけるキリスト
に向けられています。キリストのこの招きは、外面的なことではなく、内面的なことへの招きです。

聖性とは何でしょうか?

「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5.48)

とあるるように「完全さ」です。それは、また

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコ12.30)、

キリストが「あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13.34、15.12)

というように、「愛」の姿です。わたしたちは、この完成した「愛」を生きるようにと招かれているのです。

愛といっても、まだまだ大きいですね。パウロは次のように言っています。

「神に選ばれた者、聖なる者、愛される者として、慈悲、なさけ、謙虚、柔和、寛容」を身につけなさい。(コロサイ3.12)

パウロがあげているように、慈悲深く、なさけあつく、謙虚で、おだやかで、すべてを受け入れる人になりたい……と私たちは望みます。しかし、望むだけで、なかなか完全にはできません。つい、反対の思い・行いになってしまいます。ですから、常に「私たちの罪をおゆるしください」と、神の憐れみを祈る必要があります。

 人間の力だけに頼るのでしたら、愛を完全に生きるということは難しいでしょう。しかし、聖性へと招いてくださった神が、招くだけで後は何もしないというような無責任な方ではありません。招くからには、達成するようにと助けてもくださるのです。洗礼を受けて神の子どもとなるということは、神の姿にあずかるようになるということです。見込みや可能性がないのでしたら、神は招いてはくださらないでしょう。見込みがあるから、招いてくださり、イエスという模範を与えてくださっているのです。それも、それぞれの人に与えられている信仰の量りに応じて、聖性に至るようにという招きです。過去の、また現代の多くの聖人たちの生き方は、聖性への招きへの答えを私たちに教えくれます。


●41条 「聖性の多様性」
 一人ひとりが与えられている招きに応じて、愛による信仰生活を生きるようにと招かれています。

 2段落目から、聖性への道を、具体的に取り上げています。

・司教

 まず、キリストの群れの牧者たち=司教たちです。彼らは、司祭職の完全性を受けるように招かれています。祈りといけにえをささげることと宣教、司教としてのあらゆる種類のことへの配慮と奉仕を通して、牧者としての愛の完成を生きます。

・司祭

 司祭は、司教が受けるような司祭職の完全性は受けませんが、司祭叙階の秘跡によって司教に結ばれており、司教に従うことによって、司祭職の完全性にあずかります。「自分の司教に対する忠実な一致と寛大な協力が、自分の聖化のために有益」であると書いてあるとおりです。

・助祭

 次に、助祭についても述べられています。29条もお読みください。助祭の聖性も、叙階の秘跡に基づいていて、助祭の役割の多くは司祭的な働きです。しかし、それは司祭職への奉仕者として機能するものです。助祭は、「仕えられるためではなく、使えるために来た」というキリストの働きに参加し、神の民に仕える者です。

・信徒

 最後に、信徒についてです。
まず、結婚している者、親に向けられ、次に配偶者を亡くした男女と未婚者に向けられています。教会は、厳しい労働に従事する人々のことも、忘れてはいません。大工だったイエス、今も、神と共に働いているキリストの行動的な愛の模範を示しています。

 最後に、自分たちは、神の愛から除外されているのではないかと思われる、貧しさ、弱さ、病気、迫害、種々の困難の中にある人々について語ります。福音書の中で、キリストはこのような人々を「幸いな人」と呼びました。

 「聖性」は、それぞれの人が与えられた状態(身分)の中で、追い求めるようにと招かれています。神が私に与えてくださった状況、それも「聖性」への招きなのです。神の愛を、現世的な奉仕を通して信仰のうちに行っていくならば、ますます聖性を生きることになるでしょう。


●42条 聖性への道と手段
この箇条は、第5章のまとめと、次の章への橋渡しの役目を持っています。
中心テーマは、「愛」です。

この愛(caritas)は、神からの賜物で、愛である神にかかわることです。

「神は愛である。愛にとどまる者は、神にとどまり、神は彼らにとどまる」(ヨハネの手紙1 4.16)

わたしたちは、神の助けなしに人間を愛する力を持っていません。先に、神が愛をくださるので、愛することができるのです。

 第2節からは、愛の証しの姿が語られています。これらの証しは教会のはじめから輝いていて、「キリストの花嫁」と表現されていました。

 愛の証しのうちで、もっともすぐれたものは殉教です。私たちのために生命を捧げてくださることによって、ご自分の愛をお示しになったイエスにならい、イエスと兄弟のために自分の生命をささげた殉教者たち。弟子が師の姿にあやかる殉教を、教会は、愛の最大の証明と考えています。迫害は過去のものではなく、現在も、地球上の各地で、宗教ゆえに迫害を受け、生命を奪われている兄弟たちが大勢います。

 次は、福音的勧告(イエスが勧める生き方)の貞潔を守っている人々です。独身生活を守りながら、分かたれない心をもって、自分を神のみにささげることができるように、ある人々に与えられる賜物です。ここでは、組織化された修道生活(聖別奉献生活)と直接は言ってはいません。「福音的勧告」と呼ばれる生き方に基づいいた生活様式と表現しています。

 さらに、すべてをキリストに従って生きる人々、キリストにならって貧しく生きる人々へと続きます。これらの3つの要素は修道生活の要素でもあります。福音的勧告を生きている人々は、その生き方をとおして、すべての人が招かれている聖性を鼓舞する役割があります。


第6章「修道者について」43条〜44条
 さあ、いよいよ私たち修道者についてです。第2バチカン公会議は修道生活をどう見たのでしょうか。自分のことなので、ちょっと気合いがはいります。再勉強、再勉強!

 この章は、1964年に可決されました。修道生活刷新の神学的基礎として、意味がある章ですが、決定までには、複雑な道のりがあったようです。この章では、修道者の身分の教会論的および終末論的意味を教会の聖性の線に沿って進みながら、その聖性が天上にいる人々の栄光の中に成就される次の第7章へと続き、最後の8章では、教会の秘義の要約ともいえるマリアの姿が現れます。

 6章のタイトルになっている「修道者」ですが、ここでは広い意味で使っています。狭くとれば、在俗修道会は除外されてしまいますし、未来の教会の中に生まれるであろう新しい形の修道者生活を創設する可能性も閉ざされてしまいます。福音的勧告の生き方を公に誓約するさまざまな形の修道会すべてを含んでいます。

教皇パウロ6世は、演説の中で、修道身分を次のように定義しています。


 福音的勧告の誓約は、洗礼の独自の奉献に加えられ、それを完成するもの
であるが、それは誓約が独特な奉献であり、それによって、キリスト信者は、
自分の生活のすべてを(ただキリストへの)唯一の奉仕とすることによって、
すべてを神にゆだねささげるからである。

●43条 福音的勧告の実行

【福音的勧告】

「福音的勧告」については、前回の第5章の終わりで少し示されています。6章では、まずこの福音的勧告の神的起源を宣言します。イエスの言葉が、勧め(勧告)なのか、義務(掟)なのかは、セム語の表現からみてはっきりと区別することはできません。この区別は、キリスト教的な伝統に基づくもので、部分的には、すでに初代教会の共同体の中に現れています。キリスト教の教えに従って生きていくなかで、勧告と掟が区別され体系化されていき、中世の神学によって3つにまとめられて「福音的勧告」という特別に呼ばれるようになりました。

 3つの「福音的勧告」とは、「神にささげられた貞潔、清貧、従順」です。

 すべての人に要求されている愛徳、清貧、謙遜、従順を、もっと完全な形で実行する、教会の中の特別の人々がいます。修道会の創立者のカリスマや、その時代の要請によるものなので、具体的に実現することは教会に委ねられました。つまり、修道者の身分には、人間の制定によるものと、神の制定によるものがあ るわけです。

 修道生活の本質は、福音的勧告、とりわけ聖別された貞潔の実践による独身者の愛という特殊な形の愛の完成です。

 3つの福音的勧告は、人間のエゴイズムが持つ3つの強い傾向から、人間を自由にしようとするものです。その3つの傾向とは……。


 1)地上の財産を独占してしまい、神のうちに共有しようとしない傾向
 2)神への愛による動機を、他の動機によって見失ってしまい、
   神への愛と他の愛を混同してしまう傾向
 3)神の望みと一つになろうとせず、自分の意志に執着する傾向

第5章では、福音的勧告の神的起源を、マタイ19.1〜12に求めています。

 「天の国のために結婚しない者もいる」

・貞潔について---- 「コリントの信徒への手紙1」7.32〜35

 パウロは、ここで、独身生活の深い動機を提示しています。
・清貧について---マタイ5.3

 「心の貧しい人々は、幸いである」

 神の国の特徴である謙虚さを指しています。
「フィリピの信徒への手紙」2.7〜8で、パウロは清貧の典型として、キリストのケノーシス(自己放棄)を述べています。キリストが選んだ、ケノーシスの生活は、あらゆる現世的財産の自発的放棄、および、父から受けた使命への絶えざる従順に基づいています。

・従順について---

 福音書の中には、キリストの明らかな言葉を見つけることはできませんが、「私に従いなさい」という一般的な命令が繰り返されています。

 『修道生活の刷新・適応における教令』(1条)は、キリストの模範に勧告の基礎をおき、修道生活を「純潔なる独身生活を送り、貧しく生活し、十字架の死にいたるまで服従した」キリストに従うことから生まれたものとして表しています。

 修道身分は、教会の本質のひとつです。福音的勧告は教会の位階制度よりさらに深い点に触れており、位階制度は、修道生活を強制するのではなく、芽生えることを見守り、順調に発展するために必要な助けを与えます。また、修道生活は、創立者の精神と固有の意図や伝統を認め、保つ必要があります。

 また修道生活の共同体は、各自の力で個人的完徳をめざすキリスト者の集合体ではありません。兄弟(姉妹)的な交わりを通して、父が人々の中に建設しようとしている愛の「交わり」(コイノニア)のしるしです。


●44条 修道生活の定義と重要性
 ここで強調されているのは、修道生活は「奉献」であるということです。これは、公会議で新しく言われたことではなく、古い伝統を反映したものです。修道生活の基本的要素は神への奉献です。


【奉 献】

 修道誓願による奉献は、人が自分自身を奉献することです。人が自分自身で全面的に神に属する、という神との新しい関係に入り、自分を神的な領域に導き入れることです。厳密な意味で、奉献の最初の動きを与え実践させるのは神からの働きによるものです。

 洗礼によって人は神に奉献された者となりました。これはぬぐい去ることのできない神との関係の土台です。修道生活の奉献は、洗礼による奉献を基礎に置きながら、さらに神からの呼びかけに答え、神への完全な奉仕をするという意志によるものです。

 修道身分を他と区別する

第一の要素は、完徳の道を追求することを生涯の義務としていることです。

第二は、修道生活に招かれているという一般的な召命と、各自が招かれている個別的な召命(固有の召命)があるということです。

第三は、教会は教会法上の身分としてばかりでなく、典礼的な行為として神に奉献された者であることを表現するということです。

教会は神から委ねられた権能をもって、立誓者の誓願を受け入れ、公の祈りをもって彼らのために神に助けを求め、彼らの奉献を聖体に結びつけます。


【「しるし」としての修道生活】

教皇パウロ6世がわかりやすくまとめています。

今や教会にとって、公的で社会的な証言が必要であり、これこそ修道生活がもたらすものです。信徒がこの世の中で、キリスト教的生活を送り、それを広めるために必要なのは、真に世を放棄し、キリストの国がこの世のものでないことをはっきりと示す人々の模範が、第一線で輝くからです。

 修道生活は「天国の先取り」と言われています。洗礼を受けた者が、「復活して天上の国の栄光をにあずかる」という最終的にたどり着く姿を、修道者はこの世にあって生活を通して証明するのです。それは不完全ではありますが、 予告しているのです。

 最終にたどり着く栄光の状態とは、どのような状態なのでしょうか。
聖書の言葉から見てみましょう。


「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、
あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。
天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」
                          (エフェソ1.10)

「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」
                          (マタイ22.30)

「そこではもはや、 ユダヤ人もギリシア人もなく、
 奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。
 あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
                          (ガラテア3.28)
 注)現在「修道生活」は「聖別奉献生活」と呼ばれています。修道者の本質が、聖 別奉献された者であるということにあるからです。


第6章「修道者について」45条〜47条


●45条 修道者に対する聖職位階の権威
 ここでは、修道者の身分と「教会の位階制度との関係」を取り扱っています。
 キリストは、神の民を統治する権能と義務とを教会に与えました。ですから、キリスト教共同体の中に生まれる完徳の生活のさまざまな形の修道者の身分を、教会の権威者が規制するのは当然です。

 教会が修道会の会則を承認し、法的処置によって、修道生活に教会法上の身分としての栄誉を与えます。修道誓願は、準秘跡と呼ばれ、教会は公の祈りをもって誓願を立てる人のために助けと恵みを神に求めます。

 しかし、ここに修道者としての身分と、聖職者との関係の難しさがあります。修道会の組織は国家を超え、全世界に及んでいます。一方、教会は「教区」という地域で分割されていて、そこに教区長(司教)という責任者がいます。この関係について、パウロ6世は「修道団体は教会全体の善に属する務めのため、ローマ教皇の自由裁量の下にある」と言いました。しかし、修道者は、ある特定の教区の中で働き、その教区が行っている仕事や司教が与える方針に協力しなくてはなりません。パウロ6世はさらに言っています。「さまざまな教区における聖なる使徒職の実行に関しては、修道者も司教の権限に属しており、自分たちの使徒職の固有な性格や修道生活の必要事を守りながらも、司教に援助を申し出る義務がある」


●46条 修道生活の偉大さ
 46条は、44条の3に書かれている「修道身分は、神の子が父の意志を行うために世に入ったとき受けとり、また自分に従う弟子たちにも勧めた生活様式をよりよく模倣し、教会の中で絶えずそれを現している」という「しるし」としての修道身分の解説の具体的な例で、6章全体の勧めの部分と言えます。

 修道会は、いろいろな働きをしています。そのどの修道会の会員も、神から与えられた召命に自由に応え、福音的勧告の生活を送ってます。それは、心の清めと霊的自由のために貢献し、神への愛を燃え立たせるものです。

 しかし、教会の中にも修道生活に反対する人々がいます。これに対し公会議は「またなにびとも、修道者はその奉献のために、人々と関係のないもの、あるいは地上の国において無益になると、考えてはならない」とい表現してます。

 修道者の身分に反発する人たちの第一の非難は、「修道生活における勧告の実践は、個人的にも社会的にも、人格の縮小だ」ということです。修道者は決してその人格を正常に発展させることはないし、社会にとっても無益だというのです。

 修道者は、人間性の持つ3つの基本的価値、つまり家族の愛、物質的善の所有、自由な自己決定を放棄します。これは、逃避や恐れからではありません。誓願を立てる人は、これらのものが価値のあるものだと知りながら放棄するのです。これらの放棄は、人間性の成熟の障害となるどころか、人格の発展を助ける手段でもあります。しかし、これには2つの条件があります。神からの招きと個人の自由な応えです。

 修道者の誓願は、変更できない決定、ある特別な生活の道を生きるということであり、その決定は人格の存在全体を引き受ける大きな決定です。このような自己決定は、人間の成熟の前提なくしては行えません。決して、他から強制されるものではありません。最初の自由な決定、または全生活を貫く生涯にわたる生き方の態度がないならば、福音的勧告の誓願は、人格を豊かにする価値を無くしてしまいます。

 修道生活が人間性を完成するものであるというもう一つの答えは、神からの個人的な召命に従うものであるということです。修道生活は、神からのカリスマを受けなければ、だれもこの生活に入ることはできません。これは聖霊の勧め、神によって蒔かれた種から生まれるものです。もし、神からの招きが無いなら、一日たりとも、修道生活を送ることはできません。

 反発する人たちの第2の非難は「修道者は、人々と関係のないもの、あるいは地上の国において無益な者になる」という考えです。つまり「修道者はエゴイストである」という非難です。「修道者は、この世での危険を避けるために、自分の救いと完徳に心を使い、困っている人々を見捨て、人々に対して無関心である」「世への奉仕を忘れ、自分と神だけの楽な道を選んだ」というものです。これは、直接には観想生活をする修道者に向けられているものです。

 これに対して公会議は2つの奉仕について述べています。キリストのうちにおける霊的現存と協力です。観想修道会が、存在的には社会から離れているのは、冷淡や無関心からではなく、神と直接に一致するためです。彼らは愛による神との一致の道に進むにつれて、教会や社会の門だに関心を持ちながら人々のために祈り、彼らのために自分たちの隠れた生活の犠牲と苦行を捧げ、愛に進歩するのです。彼らは存在的には、人々の近くにはいませんが、キリストによって親密な方法で人々の近くにいるのです。

 「人々は永遠の生命や天の国の栄光ではなく、この世の富に心を奪われている。そこで現代にあっては、しるしである修道生活は確かに必要であり、このことを証明し予告するのです。」


●47条 結び
 第6章は、福音的勧告に招かれたすべての人々が、招かれたその召命において、秀でるようにという激励の言葉で結んでいます。


第7章「旅する教会の終末的性格および天上の教会との一致について」48条〜51条


●終末論の流れ
 終末論は、いままでは四終(死、審判、天国、地獄)としてだけ研究されてきましたが、近年の終末論の研究は、カトリック神学の世界に大きな影響を与えてきました。世界史、教会観、キリスト教倫理などを神の救いの計画という観点から考えるようになり、現代キリスト教神学の主要な神学の一つとなっています。

 17世紀から、宗教を、礼拝と道徳上の義務と結びつけて考えるようになったため、キリスト教から「希望」が失われ、19世紀以後は、合理主義や歴史哲学者らによって、宗教のない世界が登場するようになりました。このような状況の中で、教会は、この世界が神に依存しており、未完成で、終末の完成に向かって進んでいることを、再び世に示す必要があったのです。

 第2バチカン公会議は、『教会憲章』の第1章〜第6章までを「地上を旅する教会」として扱い、第7章で教会の終末的性格を示そうとしています。終末の信仰はキリスト教信仰には欠くことのできないものであり、終末の信仰なしにキリスト教信仰を確立することはできません。

 カトリックの神学者たちの終末論は、教会と神の国を同一視し、教会と霊を同一視しました。プロテスタントの神学者たちは、霊の超越性を強調し、終末における主イエスの再臨を期待しながら進む教会を強調しました。

 第7章で、現代のカトリック神学の終末論がすべて言い尽くされているわけではありません。終末論についての研究の余地が残されています。


●終末論とは
 終末論とは、人間の世界の究極的運命にいついての思想、または教説と言えます。未来観とか来世観は、東洋にも西洋にも古くから存在していました。個人の地上での生活の終わりである死、死後の世界、また全世界の終わりについても、宗教的、哲学的な思考が進められてきました。

 古代宗教は一般的に、個人の地上での生活の延長、充足として、彼岸、または天国の観念をもっていました。彼岸(極楽、天国)は、この世における苦しみが取り除かれる場であり、地獄は肉体的な苦痛の場所として感覚的に描写されています。

神道は、非倫理的で直感的な感情を尊ぶ日本民族の特徴をよく現しており、仏教より現世的な宗教といわれていますが、彼岸についての教えは少なく、世界の終末についての思想もないようです。

 終末論は、存在の究極的意味を直線上に見出そうとするユダヤ教とキリスト教の伝統の中で発展してきました。「終末論」という言葉は、キリスト教固有の用語とも言えます。

 終末論は、時代の流れと共に強調点が変化してきました。ある時代は、死、審判、天国、地獄が、またある時代には、個人的な面が強調されて宇宙論的終末論は退きました。また、教会と神の国との関係に重点をおいた時代もありました。現代では、終末論を神学の中心として取り扱うようになり、神を世界の歴史の主、支配者、完成者として考え、ここから人間や歴史を考えるようになっています。

 教会は、救いの歴史の究極であるキリストを信じ、その教えを規範とし、終わりの目的に向かって進んでいる信仰者の共同体であり、終末的共同体ということができます。キリスト信者は「すでに」(already)と「まだ」(not yet)の間に生きています。「救いは、イエス・キリストを通してこの世に来た。しかし、まだ完成されていない」ということです。私たちは、この完成に向かって歩んでいるのです。

48条〜51条の中には、「万物の回復」「キリストの再臨」「審判」「肉体の復活」という4つのポイントが入っています。


万物の回復:

            終末において、すべてのものが、罪によって失った
            以前の状態に復元されるだけでなく、それ以上の完
            全な状態に高められることを意味してします。
            ※創世記3.17〜18、ローマ8.19〜23、1コリント
            15.24〜28、エフェソ1.21参照

キリストの再臨:

            再臨は聖書に基づく真理であり、教会によって常に
            維持されてきた重要な真理です。キリスト自身が、
            世の終わりに再びこの世に来ることを、たびたび告
            げています。
            ※マタイ10.23、16.28、24章、マルコ9.1、ルカ
            9.27参照

体の復活と審判:

            肉体の復活と審判は、終末とキリストの再臨と密接
            に結びついた問題で、キリストが受肉し、全人類を
            救ったということと同様に、カトリック教会の信仰
            箇条の一つです。
            ※マタイ25.46、ヨハネ5.29、使徒言行禄10.42、1
            コリント15.42〜57、2テモテ4.1、1ペトロ4.5、黙
            示録21.24参照

●48条 教会の終末的性格
 私たちは、全人類とともに全世界がキリストにおいて完全に立て直され、万物が主イエスに従い、新しい天と地が実現する時を待ち望んでいます。しかし、その希望は地上での活動の意義を取り去るものではなく、かえって地上での生活を支える新しい動機です。

 キリストを信じる者は、他の人々と同じように、この世では苦しみもあり、誘惑にもあうでしょう。また死もやってきます。しかし、キリストの復活の秘義に結ばれているキリスト者は、希望に力づけられ、復活に向かって前進していくのです。(フィリピ3.10、ローマ8.17参照)

 キリスト信者の希望は、約束を忠実に守る神に向けられています。希望は信仰と愛に結ばれ、キリスト信者の内面の生活の基礎になっています。キリスト信者の希望は、非現実的な楽観主義ではありません。この世にものに過度に執着せず、地上の生活の真の意味を悟り、その生命の完成に向かって進むからです。再び来られるキリストに希望した生き方です。


●49条 天上の教会と地上の教会の交わり
 49条の最初の文章によって、教会がこれまで教えてきた真理、つまり「キリストの霊を持ち、一つの教会に集まった神の民が、キリストにおいて一致していて、超自然的な善を交換しあうこと(諸聖人の交わり)」を現しています。地上で旅をしている人々と、キリストの平和のうちに眠った兄弟たちとの一致は、裂かれることがなく、超自然的な善を交換しあうことは、カトリック教会の変わることのない信仰です。人間は、けっして一人ではなく、キリストを「かしら」とする愛の共同体の一員です。


●50条 聖人の崇敬および死者の記念

 1)聖人の崇敬

 教会は聖人をいろいろな言葉で呼んでいます。聖人たちは、

「私たちと同じ人間性を持ちながら、より完全にキリストの姿に変えられていった人々」            (2コリント3.18参照)

です。私たちは一人ひとり、神から異なったタレント、カリスマ(霊のたまもの)をいただいています。5世紀や19世紀の聖人たちがすばらしい模範を残したからといって、彼らと同じ生き方をすることはできません。21世紀を迎えようとしている私たちは、技術文明の現代社会の中でキリストと一致し、聖性に達する道を見つけるよう招かれているのです。もちろん聖性に達する根本的な条件は、過去も現在も同じで、地域によって異なるものではありません。それは、信仰、希望、愛に基づいた生き方です。しかし、具体的な方法は、時と所、各々の置かれた環境によって違うのです。


2)死者の記念

 カトリック教会が東方教会と共有する不変の信仰、「煉獄」についても述べていますが、「煉獄」という表現は避けて、「すでにこの世を去って清めを受けている者」があると言い、世の終わりまで煉獄が存在するという教会の伝統的教えを提示しています。第2バチカン公会議は、煉獄についての細部の問題にはふれず、地上の教会と天上との霊的善の交換、および神秘体全体の交わりを強調して、その交わりが典礼において最も崇高な方法で実現されると言っています。


●51条 司牧上の指針
 まず、第2バチカン公会議が、過去の教えを放棄するのではなく、それを受け入れるものであるということを明示しています。また、聖人たちへの崇敬や信心業が、典礼を超えるものであってはならないと忠告しています。同じように、教会芸術、建築、音楽、絵画、聖人像などが、信心の妨げにならないように、神への賛美の妨げとならにようにと言っています。

 最後に、地上における教会と天上の教会が密接に結ばれ、唯一の神を礼拝し、賛美しながら、終末において神の国の究極的な完成をめざして進んでいることを強調しています。


第8章「キリストと教会の秘義との中における神の母・処女聖マリアについて」52条〜59条
 第8章は、「マリア憲章」とも呼ばれています。キリストと教会の秘義の中における聖マリアに関する教えを体系的に示し、教会の最高権威において発表したものとしては、最初のものです。

■構 成
     第8章は、5つの部分からできています。

 1)序文 52〜54条

「救いの経営における聖なる処女の役割について」(55〜65条)

 2)キリストとマリアの関係 55〜59条

 3)マリアと教会の関係   60〜65条
  公会議は、キリストの母マリアと教会との関係を強調するために、
  マリアに関する憲章を作るのではなく、教会憲章の中に取り入れ、
  マリアと教会との関係を2番目の問題として提示しました。

 ・マリアは仲介者である
  あくまでキリストが第一の仲介者です。このキリストとの関係に
  おいて、仲介者としてのマリアの役割があることを示しています。
  マリアの仲介は、キリストの仲介の力を弱めるものではなく、
  かえって強めるものです。

 ・マリアは教会の象型、範型である
  これは、マリアのもう一つの役割をさすのではありません。
  マリアの仲介の役割、影響力と、マリアが教会の象型となるという
  ことは切り離せないものです。

 4)「教会における聖なる処女の崇敬について」 66〜67条
  ここでは、マリアへの崇敬の根拠が示され、神学研究、説教、典礼、
  信心業において、マリアが正しく崇敬されるように勧告されています。

 5)結び 68条
では、序文から見ていきましょう。


(1) 序文 52〜54条
 キリストの秘義におけるマリアについて、マリアと教会について、この憲章に対する公会議の意図について述べられています。


●52条 キリストの秘義における聖マリア
聖書と典礼の2つのテキストを引用して、キリストの受肉は、マリアによって完成されたことを述べています。またこの救いは、三位一体を発端としていることも示しています。


●53条 マリアと教会
 マリアが購い主の母であることは、マリアと教会との関係を考えるた めの中心点です。マリアは天使のお告げを受けたとき、それを謙遜に受け 神の母となりました。マリアは実際に神の子を懐胎する前に、信仰と自由な意志によって、神の子を懐胎したのです。

 またマリアは、神の子であり、自分の子であるキリストによって救われる人類とも結ばれています。マリアは、私たちと同じように教会のメンバーです。しかし、はるかにすぐれた独自の方法によっています。マリアは教会の象型であり、信仰と愛の点で最も輝かしい範型です。教会は最も愛すべき母としてマリアを慕います。


●54条 公会議の意図

公会議は、この第8章において、2つの問題を明らかにしています。

1)教会の秘義におけるマリアの役割
2)神の母マリアに対する私たちのつとめ
 また、8章は現時点に立つ私たちに必要な指導書の性格を持っているので、「マリアに関する全部の教理、あるいは神学者の研究によってまだ完全に解明されていない諸問題を解決しよう」という意図がないことを宣言しています。


(2) 救いの歴史における聖なる処女の役割について
 第8章では、全部で19回、聖書の言葉が引用されていますが、なんとそのうちの17回がこの部分にあり、次々に聖書が出てきます。聖書と聖伝に忠実であることを望んでいる公会議の姿勢が見えます。


●55条 旧約における救い主の母
 旧約聖書は、新約の光のもとで理解するとき、救い主の母である一女性の姿が明らかになっていきます。最後に「神の子がこの婦人から人間性を受けとったとき」と、新約につなげています。


●56条 マリアと天使の告げ
 マリアにおいて「時が満ち」、マリアが「シオンの娘」であることは、お告げにおいて明らかになりました。ここでは、教父たちの言葉を引用しながら、「マリアの聖性」と「救いの業へのマリアの行動的参加」という2つの教義を明らかにしています。

 マリアは、イエスの母であり、「あらゆる罪の汚れから免れた」存在であり、聖なるものであることを強調しています。これは「マリアの無原罪」ということばで表現されています。マリアは、自分の受胎の最初の瞬間から原罪の汚れからまねがれたことを示しています。

 また、公会議は、お告げにおけるマリアの役割が行動的であったことを明らかにしています。人類の救いという神の考えが実現されるためには、子キリストが女から生まれ、この世に来ることが必要でした。このキリストの母となるように選ばれたマリアは、お告げのとき、盲目的に従ったのではなく、自由な信仰と神への信頼をもって神に答え、救い主の母となりました。このマリアの行動的役割を、公会議は高く評価しています。


●57条 聖母と幼子イエス
 聖書の言葉を通して、救いの業において、マリアが子に密接に結ばれていたことを教えています。マリアは生涯の間、すべてのことにおいて自由な信仰と従順をもって子に一致していました。キリストといつも一致しているマリアは、キリスト者の生き方の模範です。


●58条 イエスの公生活における聖母
 カルワリオでのマリアの役割を示すために、マリアとイエスの公生活の秘義を紹介します。人類の救いが完成したキリストの十字架のもとにマリアが立っていました。このことは、マリアが協贖者であることと、マリアの霊的母性の2つを示しています。

・協贖者マリア

 キリストの贖いの業への協力は、懐胎のときにすでに始まっています。イエスの最初の奇跡が行われたカナの婚宴のとき、そのきっかけを与えたのはマリアでした。イエスの最後のとき、マリアは、十字架のもとに立っていました。(ヨハネ19.25〜27) カリワルオでのマリアは、贖い主の母として、マリアの生涯の中で最も大切な「とき」でした。マリアの協力は、キリストのただ一つの贖いに対する愛と苦しみに満ちた心の一致です。この一致を、神はマリアに求めたのでした。

・マリアの霊的母性

「婦人よ、これがあなたの子です」(ヨハネ19.26〜27)

という、十字架上のキリストの言葉によって、マリアが弟子に与えられました。キリストの母という神的母性は、キリストを信じるすべての人々にまでおよびます。


●59条 キリスト昇天後の聖母
 お告げのときに

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(ルカ1.35b)

と言われたマリアが、教会の誕生とも言える聖霊降臨のときにいたことは、とてもふさわしいことです。ここに聖霊の働きを通じて示されるマリアと教会との関係を見ることができます。

 救いの計営におけるマリアの役割についての教えを終えるにあたって、マリアの被昇天と女性性を簡単に示しています。マリアの被昇天とキリストの昇天は同じではありません。キリストは自分の力で天に昇りましたが、マリアは他の力によって天に上げられました。マリアはキリストの復活にあずかったのです。


第8章「キリストと教会の秘義との中における神の母・処女聖マリアについて」60条〜69条

 では、第8章の後半を見ていきましょう。


(3) 処女マリアと教会について
 第8章は、唯一の仲介者キリストとの関係でのマリアの母としての役割と、教会の象型としてのマリアを示しています。「マリアが神の民としての教会の象型である」という場合の教会は、第3章でみた位階制度としての教会ではありません。ここでは、神の民としての教会を描いています。人々と結びついたマリアを見ているのです。


●60条 救いと聖性におけるマリアの役割
 人々に対するマリアの母としての役割を示すために、まず、神と人間の唯一の仲介者であるキリストを示しています。人々に対する母としてのマリアの役割は、キリストの唯一の仲介の役目を曇らすものではありません。

 人々に対するマリアの役割は、キリストのもとにあってこそ果たすことができるのであって、マリアがキリストの働きを補っているのではありません。私たちが恵みを受けるのは、直接にキリストからです。マリアは母としての役割によって、私たちをよりキリストに近づけるために働いているのです。


●61条 われわれの母マリア
 61条では、キリストの仲介の力を示すマリアの役割が、恵みの世界でなされること、およびその役割の根拠を示しています。

 その役割の根拠は、キリストに対する母の役割、つまり、キリストを懐胎し、生み、育て、神殿に奉献した母の役割と、十字架上で亡くなった子と共に苦しんだ彼女の協力です。

 このことのゆえに、私たちは神の恵みの世界においてマリアを私たちの母と呼んでいます。私たちの母としてのマリアの使命は、キリストが私たちのうちに生きるようにすることです。マリアはキリストのために存在してます。マリアは、自分のように、私たちもキリストと一致できるようにと、母性愛を持って、常に必要な恵みを取り次いでくださっているのです。


●62条 マリアの仲介
 マリアを仲介者と呼ぶことについては、教父時代の終わりごろから教会に取り入れられたもので、現代の教皇も、この称号をマリアに与えています。この意味で、「仲介者」という称号が、どのような意味でマリアに与えられるか、示しています。

 マリアは、恵みの世界における私たちの母としての「母性愛」から、数々の取り次ぎをもって、私たちを配慮してくださっています。このうえに、「仲介者」としての敬称で呼ばれているのです。

 この仲介者という敬称には、弁護者、扶助者、救援者という3つの意味があります。


弁護者:2世紀に聖イレネウスが用いたもので、最も古いものとされています。
扶助者:ギリシア教父たちの間で用いられていました。
救援者:創世記2章19〜25節で、エバについて書かれている助けのことです。
しかし、マリアに与えられる「仲介者」という称号は、「キリストが唯一の仲介者」であるという教えを傷つけるものではありません。

しかし、同じ「仲介者」という言葉を使っています。これはどういう意味なのでしょうか? マリアの仲介は、キリストの唯一の仲介に参与し、従属するものです。憲章は言っています。

 「いかなる被造物も受肉したみことば・あがない主とけっして同列に置かれてはならない」


●63〜64条 教会の象型であるマリア
 マリアと教会との密接なつながりから、マリアを教会の象型として示しています。
 教会は、マリアのようにすべてを信じ、すべてを愛し、信仰と愛とによってキリストに生きる者の共同体です。マリアが信仰、希望、愛の人であったように、教会もそれらを大切にしています。信仰と愛とキリストとの完全な一致において、神の母マリアは教会の象型です。

 マリアと教会は深い関係がありますが、重要な区別があることも忘れてはいけません。教会は恵みと信仰において聖です。しかし、この教会は罪人である人間によって構成されています。教会は罪人の教会なのです。 マリアは、地上の生活を終えて天の栄光に引き上げられ、決定的な段階に達していまが、教会はこの決定的な段階へ向かって歩み続けている状態なのです。


●65条 マリアの徳
 教会は恵みと信仰によって聖です。しかし、教会の構成員であるキリスト者は罪を克服しながら完成へと向かって努力している段階にいます。キリスト者は信仰、希望、愛の徳の実践によって、霊的に絶えず進歩し、絶えず神の望みだけを求め、一致するように努力しなくてはなりません。このことから、マリアは、キリスト者にとって範型となっています。

 さらに教会は、マリアを使徒職の理想として示しています。マリアの一生は、使徒的宣教活動に協力する人々が持つべき母性愛の模範であり、理想です。マリアの一生は、お告げのときの信仰と従順によって与えられた承諾の精神に貫かれていました。


(4) 教会のおける聖なる処女の崇敬について
 教会は、救いの計営におけるマリアお役割、マリアと教会との関係について述べた後、教会におけるマリアの崇敬について教えています。


●66条 聖母崇敬の基礎
 まず、教会におけるマリア崇敬の歴史的事実を示しています。
私たちは、マリアのご保護を祈り求めます。この祈りの歴史は古く、3〜4世紀のものとされています。当時は、「保護」が「あわれみ」でした。

 続いて、マリアが「神の母」であることを宣言したエフェソ公会議(431年)以来の、マリアを崇敬する歴史を示します。

 教会の中にいつの時代も存在したマリアに対する崇敬は独自のものであり、三位一体の神に捧げられる礼拝とは本質的に異なったものです。マリアに対する崇敬は、神がマリアを特別にお選びになったという事実に基 づいています。

 マリアに対する崇敬は、マリア自身に対するものではなく、神である御子が正しく知られ、愛され、たたえられ、その言葉が守られるためです。


●67条 聖母崇敬の態度
 教会はマリアに対する信心を重んじるように勧めています。特に典礼においての崇敬と、教会が時代とともに与えた信心業とを勧めています。この信心業で持つべき精神は、66条で示したマリア崇敬の本質と根拠に基 づいた精神です。つまり、マリアを通じてキリストへ、三位一体の神へとのぼるものです。

 また、イエス・キリスト、聖母マリア、諸聖人の画像の崇敬についても触れ、次に、神学者と説教者に対して、神の母の独特の尊厳について考えるとき、両極端つまり誇張と過度の偏狭をさけるように勧告しています。

 マリアについての研究は、カトリックと分かれた兄弟とは異なった方法を用いています。分かれた兄弟は聖書のみにその資料を求めていますが、カトリックの神学者は、聖書に資料を求めることは、理解するための 一つの方法としており、聖伝からも求めています。

 最後に、司祭も含めたすべての信者に対して、マリア崇敬に関して法則を与えています。

 「信者は真の信仰が、実を結ばない一時的感情や、一種のむなしい軽
信の中にあるのではなく、真の信仰から出ることを忘れてはならない」

真の信仰とは、ご自分を啓示する神が人間と出会うことであり、この神に対して人間が全人格をあげて応答することです。


(5)結び

●68〜69条 旅する神の民にとって確実な希望と慰めのしるしであるマリア
 最後に教会の終末像であるマリアを示し、さらに一致のための祈りについて述べています。

 肉体と霊魂ともに、すでに天に上げられたマリアは、地上で旅する教会にとって、神の約束のしるしです。マリアは主の日がくるまで、地上で旅する神の民である教会にとって、確実な希望と慰めのしるしです。しかし、あくまでも二義的な意味で終末的希望のしるしであることを忘れてはいけません。マリアはキリストに依存した存在であり、キリストの復活こそが第一のしるしです。

 最後に、分かれた兄弟、特に東方教会のマリアに対する愛と崇敬の事実を想起し、すべてのキリスト者の一致のために、マリアに祈ることを呼びかけています。公会議は、「一致の母」という敬称を使ってはいませんが、キリストの教会の一致を実現するために、キリストの母マリアが大きな役割を果たすことを期待しています。

 旧約と新約との教会を一つにするキリストを生んだマリアの母性は、キリストのおいて完全に一つであるべき教会にも影響をおよぼします。マリアはキリストと共に、キリストに依存して教会一致にも重要な役割を果たすでしょう。

 マリア憲章の最後、つまり『教会憲章』の最後のことばは、すべてのものの最終的目的である三位一体の栄光を呼び起こしています。すべてのものの最終目的は、神の栄光なのです。